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カテゴリー "真中朋久"

まき殘す暦のおもてそのまゝに見えてさながら春は來にけり/徳川光圀『常山詠草』

誰あろう、水戸のご老公の歌である。

「まき殘す暦」とかいうと、筒状にまるめていたカレンダーに、まだその状態が残って裾がカールしているように読めるが、光圀の時代の「暦」は、壁掛けの暦ではなかったはず。折り本とか巻物とか。おそらく巻物。光圀は、渋川春海「貞享暦」の採用の後押しもしているという背景などもあわせて考えると、それなりに想像がふくらむ。
題は古今集以来の定番の「年中立春」。つまり「まき殘す暦」というのは、まだ(旧暦)12月の日付のところが残っているにもかかわらず、立春がやってきたということだ。

まだ先のことだが、今年の立春=2月4日は、旧暦12月17日。

カレンダーの巻きぐせ。私もそういうのをつくったことがあるが、いくつか。

カレンダー逆に丸めて巻き癖を取れば表紙の仔犬が笑う/畑中秀一『靴紐の蝶』
二月まだ巻き癖少し残りいるカレンダーに梅は曲りつつ立つ/三井修『薔薇図譜』
巻き癖のまだ残りいるカレンダー野分の風に波打ちており/吉川宏志『曳舟』

先日書いた「大正時代の鉄道の旅」にも関連するが、少し前に、こんな歌を見つけた。

塩湯浴み癒えざりし赤彦悲しきに今日下孫(しもまご)の駅の名も見ず/土屋文明『青南集』

「下孫」というのは、陸前浜街道の宿場。常磐線ができたときに駅は「下孫」となった。その後、いくつかの村が合併して、多賀町になったときに、現在の「常陸多賀」になっている。島木赤彦にゆかりのある下孫駅の名は、土屋文明のこのときの旅では、もう無くなっていた。
下孫=常陸多賀は、私の出身地の最寄り駅でもある。とはいえ実家からは歩いて40分ほどかかる。昔はバスの便も本数があったが、最近はなかなか不便になった。

島木赤彦がここで何をしていたのか。「癒えざりし」というからには、晩年の病気のころのことだろうが「塩湯」とはどういうことか。しばらく謎のままだった。

それが、ふと、Google地図を拡大していたら、「島木赤彦歌碑」というのが「史跡」のアイコンで示されている。そんなものがあるのは知らなかったが、私の実家の前を流れている川を下って海に出るあたりである。
検索をすれば紹介記事などもでてくるが、どうやらかつてここは海辺の行楽地として、それなりに賑わっていた。その昔は「焼石湯」といって、海水に焼いた石を入れて湯にするとか、そういった温浴が名物であったという。
しばらく前までは、あらかじめ予約をすれば宿泊できるような旅館がいくつかった様子だが、砂浜も浸食されて荒涼としており、海水浴場から少し離れていて往時の賑わいはない。

写真は常磐線の車窓から。東京から北上していて、はじめて海が見えるのは、常陸多賀―日立間のここ。橋が見えているが、その先左岸の植え込みのあたりに歌碑がある。

歌はこういうもの。

夕毎に海の南の雲を染めて茜根にほへり風寒みつつ/島木赤彦

これもしばらく謎だったのだが、今、調べ直したら出てきた。

大正15年(1926年)というのは昭和元年になる年だが「鮎川にて 町山正利氏へ 一月一〇日」として『赤彦全集』(岩波書店、1969年)の第1巻「人に送りたる短歌」のところにある。
その前後の書簡は、全集第8巻にいろいろある。

まず「鮎川温泉島崎館より 多賀郡助川町 町山正利氏宛」という葉書。句読点が無いのがいくらか読みにくいがそのまま書き写してみる。

昨日こゝへ來ましたまだ三四日は居るつもりです御ひまならばやつて來給へ 一月九日

町山氏の名前は、地元で発行されている書物にも見える。歌碑の歌が書簡類にないということは、短冊かなにかに書くことを求められたということではないかと想像する。歌の姿も、即詠のような感じといえば、そういうものだろう。

こののすぐあとには、長崎高等女学校寄宿舎にいる三女の水脈への葉書がおさめられている。

水戸から五つ六つ北の驛(下孫)から廿四五町右へ下つて鮎川温泉へ來ます家の裏は直ぐ砂濱で外海の波が押しよせて騒いでゐます湯は海水をわかしてそれに靑い石を焼いて入れるといふ奇妙な湯です何だか温まりさうです萬事注意して勉強すべし四五日して東京へ歸ります 一月九日

おそらく同時に投函または宿の人に托して郵便局から発送したのだろう。「右へ下つて」というのは、海岸台地の上を走る線路に沿って北上しつつ、右のほう、すなわち海側の坂を下ってゆくのが、そのとおり。坂を下りてゆくと冒頭写真の橋を渡ることになる。海水に焼石を入れて湯にするのではなく、湯の中に焼石を入れるというのは、営業ということを思えば、そういうことかもしれない。

滞在は、実際に「三四日」ほどのこと。アララギ発行所宛ての葉書も書いているので、土屋文明の記憶に残っているのもそのあたりだろうか。

このあいだ、この欄で梶原さい子さんが仙台文学館の「詩人・山村暮鳥展」のことを書いておられた(2025.06.29)。

どんな展示だっただろう。短歌にかかわるものは出品されていただろうか。

山村暮鳥にかぎらないが、小説家や詩人の「全集」の目次の雑録編のようなところをチェックすると「短歌」の項目があることがある。読んでみると、それはそれで、さまざまに発見もあるものだ。暮鳥の場合には、4巻本全集の第1巻の末尾のあたり。第2巻にも詩が続くから、詩業の中心に「短歌」が置かれているように見えないこともない。

歌数は350首弱。重複もあるが300首を越えて、つまり歌集1冊ぶんぐらいの歌がある。

初期は「白百合」。明治37年(1904年)2月から、ほぼ毎月掲載がある。最初期の「白百合」1巻4号明治37年2月はこの3首。当時は「木暮流星」を筆名にしていたらしい。

さらば君白衣さきてわれ行かん野にはいなごの餓(うゑ)もあるまじ
罪かわれいかに天には小さかれ恋うて歌うて母にいねん身
泣かで往ねこれせめてもの月の夜ぞ春の御母のいとひますらん

「明星」系の人々(前田林外、岩野泡鳴、相馬御風)によって創刊された「白百合」なので、なるほど「明星」ふうの詠みぶりというのだろうか。空想や陶酔感のゆくさきが正直ちょっと読みきれないところもある。

もう少し後の時代の、これは『中学世界』(10巻7号 明治40年6月)。「鳥なれば」と題する7首から。

鳥なればとへどこたへずいづかたへ鳴きつ野を行き山をゆくらし
山の夜はふけぬ廂(ひさし)にほす鮭の尾よりしたゝる霧のしづくに
春の鐘けふもことなく大浅間けむり吐きつゝたそがれにけり

時代の違いか、ずいぶんリアリズムに寄ってきた感じがする。「鳥なれば」は「鳥であるので」。飛んでゆく鳥というのは、筆名「暮鳥」にも通じるところ。吊るした鮭というのは高橋由一の絵なども思い出すが、昔はごくふつうのことだっただろう。「霧のしづく」だけでなく、魚の油なども滴るようで、嗅覚までも刺戟される作品。
浅間山は明治40年の前半ならば1月、3月に噴火があった。この翌年からは遠方からも爆発音が遠方でも聞こえ、広い範囲で降灰があったり、死傷者多数の被害をもたらす噴火なども多くなる。何かそういうことも予感させるような風景であるかもしれない。

菱採りよ菱採るごとき手つきして男とらずやおもしろからむ
空遠くわたる小鳥のむれを見るわれのまぶたのさみしき日かな
平(たひら)とは黒き烟(けむ)吐く《えんとつ》のもとに小さきはなにほふ町

こちらは『秋田魁新報』(大正元年10月10日)に発表した「滅びゆく秋の日のかなしき歌」10首から。原文に傍点だったところは《》で示した。

沼に盥舟などうかべて生い茂る菱に手をいれる作業に従事するのは女性が多かったのだろう。キリスト教(聖公会)の伝道師という立場には、ちょっとふさわしくないような、エロスを感じさせる「菱採り」の歌。そういうところが山村暮鳥の魅力であるとも言われているらしい。「空遠くわたる小鳥」は、やはり「暮鳥」のモチーフ。
煙突の歌は、暮鳥が大正のはじめから7年ほど住んだ福島県いわき市。当時は平(たいら)町。いわき市在住の小林真代さんによれば、この時代ならば煙突はレンガ工場あたりではないかという。

詩人の短歌ということなら、詩のほうの表現との共通点や違い、どちらかがどちらかの原型になっているとか、そういうことの分析もすべきだろうけれど、ちょっとその準備は無い。ひとまず。
 
   *
 
写真は菱の花。

明治時代の中頃以降、鉄道網が整備されるようになると、遠方への「旅行」というのが、それほど特別なことではなくなった。線路を延長すれば旅客数も確保しなければならないから、のちの国鉄である鉄道院(1908~)や鉄道省(1920~)が「旅行案内」的な冊子を刊行したり、民間の出版社からもさまざまに旅行案内書が刊行されるようになる。とくに大正10年(1921)の鉄道省『鉄道旅行案内』は、吉田初三郎による絵も美しく画期的なものだったらしい。大正10年版のこの本は「刊行後40版を越えるベストセラーになり、旅行ブームを巻き起こしたという」(平田剛志(2012)「鉄道省編『鉄道旅行案内』諸版の比較研究」立命館大学大学院先端総合学術研究科「コア・エシックス」 8 513-523)ことだが、こういう場合、ある部分は〈時代が求めていたものが《これ》だった〉ということもあるのではないか、と思う。

さて、その前年、前々年に「旅行」に関する短歌のアンソロジーが出ているので、すこし覗いてみよう。

   *

まず、佐佐木信綱(編)『和歌名所めぐり』(博文館、1919年)。編者である佐佐木信綱の緒言を、少し長めに書き起こす。

 旅行の樂しびは、人生の最大快事の一つである。殊に近時の如く、交通の機關が發達し、旅宿その他の設備も完全になつてゆくにつれて、旅行は益々樂なものとなつて、草枕と云ふ枕詞にのこる古人の旅行觀は、書物の上の昔がたりとなつてしまつたといへる。併し眞の旅行の樂しびは、樂な交通機關を利用して、完備した旅館に泊まるといふのに盡きてゐるとはいへない。美しい山や、ゆたかな海の景色を眺めたり、歴史の古跡をたづねて昔を忍んだり、珍しい風俗や習慣を見たり、すべて日常平凡な生活から離れて、新しい境遇に身をおき、新しい刺戟に接するといふこと、ここに旅行の眞の樂しびはある。
 かくの如き旅行の樂しびを、一層増しもし、また補ひもするものは歌である。その所その地に臨んで、古へ今の作者歌を囘想するといふことは、歌心のある人はもとより、未だ歌心のおこらぬ人にも、旅の興を添へるものである。
(略)
日本國中凡てに渡って網羅することは他日にゆづり、まづ日本國中の主なる汽車の沿線、汽船の沿岸などについて、主なる名所古跡を詠んだ歌を選ぶことにした。
(略)
古来の名所の歌によくみる、單に古歌の歌枕をそのままに詠みこんだだけで何等の生趣もないやうな作は出来るだけ捨てて、成るべくその實境に就いて詠んだ作で、眞に旅客の心に觸れ、情を動かすに足る、生きた歌をとるのを眼目とした。(後略)

「樂(たの)しび」とか、やや古風な感じの言い回しもあるけれど、旅行観の変遷などについても、じっくり練られた文章であると思う。旅行の今日的な意義とか、文芸および文芸史の知識・素養が旅の経験を深くするというのは、世の中の大多数の人には関係ないかもしれないが、短歌にかかわる以上は、心して読むべきところだろう。
最後の部分の、古歌の「歌枕」との決別というあたりも、大正時代の意識とか、マニュフェストという意味でも、なかなかに味わい深いところがある。

来年の全国大会は松江。そのあたりの歌を拾ってみる。

    美保の關
みほが崎よる浪のほのいちじろく神世のあとぞこゝに殘れる/三條實美
    安來
日本海のゆふべはさびし燈臺の灯も見えぬまで秋雨降れば/錦織幸子
    松江
出雲冨士はつかにかゝる雲を見て旅の夕べをさびしみにけり/藤井喜一

三條實美は明治初期の政治家。元勲。錦織幸子と藤井喜一は「心の花」に所属した人であるらしい。

   *

もう一冊は 半田良平(編)『名所めぐり最新旅行歌選』(紅玉堂書店、1920年)。こちらは「凡例」というのがマニュフェストに相当する。半田良平は、こんなふうに書いている。

一、本書に収めた歌は、明治三十年前後の新短歌興隆以来、今日に至るまで、約二十餘年間に亘つて詠まれたものゝ中から抜萃したもので、既に名を爲した大家の作は勿論、新進諸家の作までも出来るだけ多く網羅したつもりである。この意味に於て、本書は一面、明治大正歌壇大觀の趣をもつてゐる。
一、排列順は主として、院線系統により、支線に亘るものは、その都度これを明記しておいた(略)
歌數は合計二千七百九十五首である。(後略)

佐佐木信綱が古典まで視野をひろげつつ、空想的な歌枕ではない実感を重視したのに対して、こちらは明治後期から大正はじめまでに限定して、もっと現代的なアンソロジーにしたい。旅行の歌に限定しながら「明治大正歌壇大觀」というのが、壮大な意気込みだ。さらに、鉄道の路線とか、乗換案内のような部分にも工夫をこらして、違いを出そうとしている。
1年違いの刊行。後発の半田良平と紅玉堂に対抗意識がなかったはずはない。それが如実にあらわれた「凡例」と読めるのではないか。

どちらがどのくらい売れたのか、それぞれの本を読みながら旅行をした人がどのくらいいるのかわからないが、いずれにしても、鉄道旅行ブームの到来という勢いを感じさせるものだ。

こちらも、作品を拾ってみる。

    宍道湖(松江驛)
宍道湖に暮れてなづそふ灯火(ともしび)はいざり火なれか遠くはゆかず/野澤柿葺
    玉造温泉(湯町驛)
遠世人埋めおきたる石の棺見つけ出されて日の下にあり/木下利玄
    出雲大社(大社驛)
久方の天がしたには言絶(ことた)えて嘆きたふとび誰か仰がざらむ/長塚節

野澤柿葺は「潮音」の人であるらしい。木下利玄と長塚節は説明不要だろうけれど、「湯町驛」は現在の「玉造温泉駅」。その少し前に、米子から境まで行って戻って「更に本線に戻りて西す」という注釈がある。長塚節の歌の前には「出雲今市より分岐する大社線によりて」とあるが、「出雲今市」は現在の「出雲市」。JRの大社線は廃止になっいて「大社駅」も存在しない。今なら一畑電鉄線で「出雲大社前」ということになるだろう。
木下利玄の作品は「玉造築山古墳」のこと。

   *

そんなふうな歴史を確認したり、作者名から、これは誰だろう?と調べたりしていると、いろいろ、発見があって面白い。
自分の住んでいるところ、故郷の周辺が、どんなふうに詠まれているのか。誰がそこに来て歌を詠んだのか。そんなふうな読み方もできるかもしれない。
 
いずれも、国会図書館のデジタル資料で読むことができる。

   *

冒頭の写真は東京駅から上野方面。上野東京ラインの急勾配が見えている。

もう、だいぶ前のことになるが、「芥子を植ゑたり」と題して4ページほどの文章を書いたことがある(「塔」2009年4月号)。
高安国世『Vorfruhling』の「雨ふれる野の幾ところ白じろと照るとおもふは芥子(けし)を植ゑたり」から、その「芥子」はアヘン採取のためのものであるに違いないということで、あれこれ調べながら書いた。戦前戦中のころ、北摂の、とくに高槻から茨木にかけては薬用ケシの大産地だった。時代背景とからめて、その時点で手に入った資料、例歌などに依拠して書いたわけだが、当然ながら、その後に見いだされるものもある。

きょう、見つけたのは文章。富永堅一『木草の息』という歌集。富永堅一は「アララギ」の人で戦後は「林泉」に所属する。短歌の「地盤」と言うのも変だが、鈴江幸太郎の創刊になる「林泉」には北摂の人が多く、富永もその一人。この歌集の時期には大病をして歌がほとんどつくれないことがあったらしい。そのリハビリとして書いた散文が歌集中ほどにおさめられていて、これが良い。病床で書いたもの、退院後の自宅療養中に書いたものなど。そしてそのなかに「芥子」という一文がある。

「文芸春秋」に発表された近藤芳美「散り落ちてまた音もなき苞のかげ一夜の芥子の咲き映ゆる灯に」(のちに『黒豹』所載)を枕に、この作品は「鑑賞用の紅い芥子の類」であろうけれど、「しかしぼくは芥子といへば阿片を採る芥子畠と農家の烈しい労働を思ひ出す。今の茨木市高槻市の一部にかけて広範な芥子畠があつた。」と回想を語り始める。

戦時中のケシ栽培の意味については「芥子を植ゑたり」に書いたので繰り返さないが、作業の具体の描写が、なかなかに細かい。

芥子は晩春その白い花弁が散ると、俗にいふ芥子坊主を露出する。この蒴果はやや小型の鶏卵大である。夏期梅雨にはいる前天候のよい時を選んで、愈々阿片の採集が始まる。はじめ芥子坊主に鋭い小刀で二三本の傷を縦につける。すると淡紅柴色の乳液が分泌される。その分泌液は空気に触れると黒褐色に変つてくるが、先行する傷付け役の数歩後に採液係が金へらで掻きとつて、提げてゐる小罐に納める。これを数日おいて数回繰りかへし、蒴果の周囲に何本も傷をつけて果液をことごとく採納する。この黒く膏薬状になつた乳液は竹の皮に塗りつけて乾燥し、後ブリキ罐に収めて政府に納入する。

実際に観察したのか、聞いたことなのか、遠目に見ていたことを聞いた話で補ったのか、おそらくそういったことのいずれかだろうが「農作業に経験のないぼくは、芥子栽培に関して杜撰疎漏な点が処々にあると思ふので、耕作経験者に話を聞いたうへで書きたいと思つてゐたが、病床にその機会がなかつた」という留保をつけている。
もうひとつ、面白かったのはこのあたり。

この栽培採液に際しては、当局の監視は甚だ厳重で、タバコ栽培とは較べものにならない程過酷だつたさうである。だからその時期になると田舎の駐在さんは油断なくそこらを駆けめぐる。それでも時々不埒な密売者や悪徳ブローカーが挙げられるので、茨木署や高槻署は急に忙しくなる。

なるほど、そのとおりであるだろうが、「ここでケシを栽培していたのか!」という驚きと勢いで書いていたときには、そこまで思い及ぶことはなかった。
一つの事柄には、さまざまな人がかかわり、それぞれの立場からは見える風景も違っているものだ。

最も貧しき国が拠点となるといえ芥子を育つる山の谷々/近藤芳美『岐路』

近藤芳美は、後のちに中央アジアの山岳地帯などのケシ栽培のことについて歌にしている。

夕暗にほの白き花の芥子畑の続くかぎりを我が汽車は行く/原ひろし『紫紺の海』

それから、これは和歌山。大阪・北摂から、やがて生産の中心は和歌山のほうに移って鉄道沿線には広大なケシ畑が広がっていたらしい。この歌集は「塔」の昔の仲間が、その祖父にあたる人の雑誌発表作品や遺稿をまとめたもの。たまたま手にとった歌集の編者の名前を見ておどろいた。

たくさん読んでいると、そういう邂逅も、ときどき、ある。

   *

そういえば、このあいだ「八角堂」欄でも「その後」というタイトルで書いていた。

少し前に「不穏な惑星」と題して、スズメバチの巣のことを書いたが
ようやく冬になって、ハチの活動も休眠期に入ったので撤去することができた。
ラグビーボールより少し小さいサイズ。

このまま飾るか……と思ったが、そういう場所は無い。
家人にも拒絶されたので捨てるほかはないのだが、ただ潰して捨てるのももったいないので
断面を見てみることにした。

三階建て。
面白いのは外殻のが一枚の厚板ではなく、薄い板が空洞をはさんで重ねられていること。
「保温」の効果について言及している記述はいくつか見つけたが、この構造はおそらく強度にも関係するだろう。
軽くて強い構造をつくろうと思ったら、段ボール箱のような構造になるわけだ。
 

蜂の巣といえば、いわゆる蜂の巣構造。六角形の構造そのものが軽さと強度を備えた構造だった。

ふと見ると、軒下にもうひとつある。ひとまわり小さい。

こちらはきれいに取り外す事ができなかった。
外殻を引きはがしたところが、内部はやはり三階建て。


 

窓の上に巣くいし蜂のひそひそとこもりて音す曇り月夜を/高安国世『砂の上の卓』

 
この家に住む人は、ぜんぜん気づかなかったそうだ。
 

実家の庭先。

籠の中に餌があるかどうか見に来た。
シジュウカラと、それからヤマガラも来る。
ヤマガラのほうがあつかましく、残り少なくなってくると「ぢいぢい ぢいぢい」と啼いて要求する。

鳥の専門家に言わせると、あまりたくさん与えてはいけないらしい。
やはり、自分で餌を見つける力をつけなければ。
 
(歌の題材も自分で見つけなければ)


 
餌はヒマワリの種。
くちばしでつまんで、近くの木の枝の上で殻を割って食べる。
 
枝にとまる足で固定して、くちばしで高速打撃を加え、じょうずに殻を割る。

食べ終わると、また、元気な声を上げる。

みちのくのごとく空澄み四十雀の元気のこゑは北の窓より/花山多佳子『三本のやまぼふし』

関西に戻ってくると、やはり青空が靄っぽい。
晩秋から冬にかけての関東の青空は青いが、北のほうに行けば、さらに青い。

理屈を言えば水蒸気量とか、大気層の厚さとか。

夜のふけをたたみの上の蟻ひとつ黒く小さく迷ひつつゐて/齋藤史『ひたくれなゐ』

古い家なので、蟻ぐらい、普通に出入りする。

ところが、入ったはいいものの、どこに帰るのかわからなくなってしまうのがいる。
どこの世界にも、そういう粗忽な者はいるもので、と言いながらだんだ身につまされてくるのだが。

アリやハチの類のよくやるしぐさ。
自信がなくなると、触角のメンテナンスをする。

湿度の高いときに、蜂などもよくやっている。

パソコンの中には入らんといてね。

バグ(虫)は困るよ。

川のなかに大岩ありてスズメバチは木星のごとき巣を作りおり/吉川宏志『石蓮花』

半年ぶりに、実家の庭のあれこれ。草刈りと樹木剪定。
電動の剪定機(トリマー、バリカン)で調子よくツツジの剪定をしていたところが、大きなスズメバチが飛んでいることに気づく。
何をするのか、どこへゆくのかを追跡してゆくと、ありました。不穏な惑星が。ツツジの根元近く。
 
もうすこしでそこにさしかかるところだった。
スズメバチのほうも電動機の振動を感じて、警戒態勢に入っている模様。

幸い、当方には気づいていないようで、巣のまわりをしきりに点検している。

というわけでツツジのそのあたりはあとまわし。冬になったら巣は放棄されるはずなので、そのころに対処することにする。
 

あざみ咲き烏瓜(からすうり)の葉しげみたり秋暑き日の崖下のみち/川田順『技藝天』

しばらく前までは、また「秋暑き日」などと言っていたのだが、ここ数日ぐっと季節が進んだ。
昨日が立冬。

烏瓜の話をしているんだよ。おまえさんを呼んだわけではないよ。

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