本よみうり堂(松村)
読売新聞(大阪本社版)夕刊の「本よみうり堂」の「書店探訪」に三月書房が載っていました。
「古美術店が並ぶ京都市中京区・寺町二条。全国の本好きに知られる小さな書店がひっそりとたたずむ。店名は1950年3月の開店に由来する。店内には哲学、現代短歌、漫画など1万点が詰まっている……」
小さいですが、写真入りです。
読売新聞(大阪本社版)夕刊の「本よみうり堂」の「書店探訪」に三月書房が載っていました。
「古美術店が並ぶ京都市中京区・寺町二条。全国の本好きに知られる小さな書店がひっそりとたたずむ。店名は1950年3月の開店に由来する。店内には哲学、現代短歌、漫画など1万点が詰まっている……」
小さいですが、写真入りです。
大辻隆弘さんが毎日新聞の短歌月評「相対化の視線」の中で、
「塔」5月号の高安国世特集について触れています。
皆さん、どうぞお読みください。
http://mainichi.jp/feature/news/20130527ddm014070014000c.html
もうすぐ5月も終りますね。
パンジーとビオラを抜きました。
さて、6月の事務所の開所日は以下のとおりです。
2日(日)13時〜16時
3日(月)13時〜16時
10日(月)13時〜16時
17日(月)13時〜16時
18日(火)13時〜16時
24日(月)13時〜16時
26日(水)13時〜16時
27日(木)10時〜16時(13時からは京都平日歌会)
どうぞご利用ください。
1988年3月号から、澤辺元一「砂糖の話」。
昭和十八年春、私の入学した頃の神戸商業大学予科という学校の教授陣は、ちょっとした珍姓オンパレードの感があった。中でも朱牟田(夏雄)、堀米(庸三)、荻野目(博道)といった姓にはいまだ嘗ておめにかかったことはなかったし、生島(遼一)、赤塚(忠)、竹之下(林蔵)などというのも一癖ありげな苗字であった。二宮尊道という先生もおられた。私もラグビー部でお世話になったが、ある日転宅されることになり、皆で手伝いに行った。立派な仏壇を運び出している中に、うっかり位牌を一つ溝へ落としてしまった。これが何と御先祖の二宮尊徳先生の位牌であった。まるで嘘のような話である。(以下略)
この二宮尊道さんは、後に神戸大学の教授となった英文学者で、D.H.ロレンスやT.S.エリオットの研究者として知られているようだ。
新刊のご紹介です。
栗木京子さんの『うたあわせの悦び』が、短歌研究社より刊行されました。
「短歌研究」に連載された「超時空歌合せ」を加筆、改題したもので、
古典和歌と現代短歌の33番勝負となっています。定価2500円。
どうぞ、お読みください。
1987年2月号、永田和宏「「桃二つ」原歌」。
世評高い作品というものがある。高安国世における
桃二つ寄りて泉に打たるるをかすかに夜の闇に見ている
という作品も、さしずめその典型的な一首である。岡井隆との論争によって有名になった一首でもある。その原型が、「桃二つ寄りて噴井に打たるるを」であることを、藤重直彦の保管する〈京都学生短歌会〉の詠草録によって、最近見つけた。
この歌は高安の第7歌集『街上』に収録されているもの。最初に歌会に出された際には「泉」のところが「噴井」であったというわけだ。「噴井」は「ふきい」または「ふけい」と読むらしい。
「噴井」と「泉」では随分と印象が違う。実際に京都の高安邸の庭には人工の池(?)があったそうで、それがこの歌の元になっているわけだが、それを「噴井」と詠むか「泉」と詠むかで、歌から受ける印象は大きく変ってくる。
栗木京子さんの歌集『水仙の章』(砂子屋書房)が刊行されました。
第8歌集。2009年秋から2013年初春までの作品470首が収められています。
13:00から永田家にて、6月号の再校&7月号の割付作業。
参加者14名。
永田家に到着した頃から雨が降り出して、途中けっこう激しく降る。
永田さんは不在。
7月号は第3回塔短歌会賞・塔新人賞の発表号。
今年も力作揃いで、どの作品も読み応えがある。
いつもより人数が少なかったので、黙々と作業に没頭して、17:00終了。週末はあっという間に過ぎてしまった。
同じく1990年5月号から、吉川宏志「花水木」。
短歌を始めてから、だいぶ花の名を憶えたと思う。始める前は、木蓮というのがどの花かも知らなかった。木蓮はたくさん家の回りに咲いていたのだが、不思議なもので、名前を知らないうちは咲いていても気付かないのである。
そんな僕でも、歌を作る前から知っていた花に花水木がある。小椋桂という歌手に「くぐりぬけた花水木」なる曲があって、それで知ったのである。まだ中学生だった頃のことだ。
「その花の道を来る人の
明るい顔の不思議さに
くぐり抜けてみた花水木」
というような歌詞でいい曲だった。
まだくぐり抜けるほど見事な花水木の並木は見たことがない。
(以下略)
当時、吉川さんは21歳の大学生。
花水木と言えば、吉川さんの「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」という歌を思い出す。この歌は『青蝉』の第二章(1991年冬から94年秋までの作品)に入っているので、このエッセイの後に作られた歌ということになる。
京都府立植物園の北西に、ハーブやスイレンを咲かせたちょっとしたコーナーがあるのですが、そこが冬に行ったとき全部抜かれて、新しい庭に作り変えている様子でした。
好きな場所だったのでがっかりしてたのですが、今日行ってみるとつる性植物でアーチのようになった通り道だけ残されていました。
良く見ていると入り口にアケビが生えていて出口にムべが!
独りで感心してしまいました。
アケビとムべは実も葉も蔓もとてもよく似ています。
アケビは実が割れますがムべは割れない。ムべは葉が常緑である。
これを植えた人は似ていることを楽しんで植えたのかなと・・思いました。
アケビは通草とも書き茂吉の「脳の切片染めながら」の歌の紫の花です。
ムべは郁子と書いてこれには、伝説があります。
天智天皇が蒲生野であった老夫婦に長寿の秘訣をきくとこの果実を食べているからですとこたえました。
天皇がそれを一口食べて「むべなるかな」といったところから名づけられ近江八幡の特産品となっています。
という記憶が蔓式にでてきて・・実のなるころにまた行ってみようと思います。