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アーカイブ "2010年07月"

今日は高安国世の命日。1984(昭和59)年7月30日に70歳で亡くなっている。

渡米してすぐに、師である高安国世先生が亡くなった。この歌集の冒頭に師の挽歌を置かなければならなくなり、これが、歌集をまとめるのをなんとなく遅らせた、もうひとつの理由であるかもしれない。
  /永田和宏歌集『華氏』 あとがき

昨年の夏、短歌を始めて以来ご指導くださった高安国世氏が逝ってしまわれた。気むずかしいけれど、あくまで一人一人の個性を尊重し、肯定する師の下で、つい自分に甘く過ごしてしまったことを深く反省するばかりである。
  /花山多佳子歌集『楕円の実』 あとがき

高安国世先生には、私がまだ学生であった頃から、つねにご親身な励ましをいただき、歌集出版の計画をご相談しました折にも、とても喜んでいただいたのですが、この七月、あまりにも突然の先生の訃報に接し、悲しみのいまださめやらぬ毎日です。
  /栗木京子歌集『水惑星』 あとがき

久しぶりの雨。
ベランダで育てている朝顔が元気である。
今朝は16個の花を咲かせた。

毎朝、水をやるだけで気持ちが和む。
朝のうちは青色をしているが、夕方になると赤紫色になる。

連日、コメントが活況で書くのが億劫になるのですが…
仕事柄、毎日短歌ばかりを読んでいる。今日、最後の校正をしていて、孫が虎落笛を吹く、という歌に出くわした。
何度かの校正で完全に見落としていたのだけれど、虎落笛は虎落(竹などを組み合わせて作った柵)や電線などを冬風が通る時におこすヒューという音のことで、決して人の吹く笛ではない。慌てて著者に電話で確認すると、完全な思い違いであったことが判明。
こんな思い込みって多々あって怖い。ついさっきも全国大会スタッフのメーリングリストで、知ったかぶりの知識をひけらかして恥をかいたところ。
母校(厳密には中学までしか通っていないが)の高校が夏の高校野球滋賀大会で決勝進出を逃した!!

ねじめ正一の小説『荒地の恋』を読んだ。
五十三歳の詩人北村太郎が、田村隆一の妻、明子と恋におち職場も家庭も失ってゆく。
それと同時に北村はあふれるように詩を書き始める。
荒地派の詩人が何人かでてくるが、私の好きな鮎川信夫は、泥沼化する人間関係のなかでこまやかな気配りをし、ひっそりと死んで行く。
    
     『荒地』の仲間たちの関係はいつも悲惨で滑稽だった。
この一文がすごく気に入った。詩人たちの詩を再読してみたい。

なぜかこの頃になって名前を間違われることが多くなった。別段気にしているわけではないのだが、藪という字は難しいのだなあ、と今更ながら思う。
パターン1 籔内亮輔 (やぶが竹かんむり)
パターン2 藪内亮介 (すけがちがう)
パターン3 薮内亮介 (ちなみに薮は簡略字なので一応大丈夫)
今のところは1がとても多い。私としては藪に比べてかなり違和感がある字なのだが、見慣れない人には同じ感じに映るのだろうか。なんか藪のほうが堅い、概念的、形式的な印象がある…気がするのだが。しかしこの前、高校の同級生にすら間違われたので、しかたないのかもしれない。
私も小さい頃そうであったが弟もこの字には苦労しているようで、いつも藪だけがやたらと大きく、名前のバランスが悪い。そして基本的に枠をはみ出す。
しかも藪内亮輔は総画数が多いので、テストで名前欄を埋めたころには他の人はすでに1問目を解き始めている。ちょっと損な気分。
というわけで、これ以上悲劇を繰り返さないよう、参考資料として私が(もしくは他のひとが)間違えた名前の数々を附しておきます。右が正しい名前。
浅井さとるさん (朝井)
大森静香さん (静佳)
荻原(はぎわら)さん (おぎわら)
河野(かわの)美砂子さん (こうの)
敷田(しきた)八千代さん (しきだ)
でも、間違えたほうが覚えちゃいますよね。

土屋文明とクレソンについて、最後にもう少しだけ。
文明は戦時中の昭和20年6月、群馬県吾妻郡原町大字川戸に疎開する。そこでの生活を文明は「川戸雑詠」というシリーズで何度も歌に詠んでいる。
 朝々に霜にうたるる水芥子(みづがらし)となりの兎と土屋とが食う
                           『山下水』
疎開生活の中で文明が、水辺に自生する水芥子(=クレソン)を食用としていたことは既に述べた。この歌は昭和20年初冬のもの。
その後、文明は昭和26年11月に六年あまりにわたった疎開生活を終えて、東京の青山南町に帰住する。戦後の食糧難も次第に改善していただろうし、もう自生する水芥子を食べる生活ではない。
そんな文明が、昭和29年に意外な場所で水芥子と再会するのである。
 百貨店に束ねて売れる水芥子(みづがらし)来る度来る度寄りて見る
                          『青南集』
疎開時代に食べていたクレソンと同じものが、東京の百貨店に恭しく売られているのを見て、文明は感慨深く思ったのだろう。下句の「来る度来る度寄りて見る」に、懐かしいような訝しむような気分がよく表れている。
そんなに気になるのなら、買えばいいのにね(笑)。

梅雨が明けてから、京都は連日35℃、36℃、37℃といった日々。
夏らしくていいのだけど、さすがに暑い。
わが家は昨年から「冷房不使用宣言中」なので、家に帰っても暑い。
起きてる間も寝ている間も、ひたすら汗をかき続ける。

この分だと少し痩せるかな。

昨日、楽しみにしていたセパ交流戦をテレビで見ました。
そんなに野球に詳しくないのですが、知っている花形選手が続々と出て来て、楽しめる試合でした。
西武のナカジマ選手のグローブがスカイブルーの美しい色で一際目を引きました。
魔球を投げると宣言していたダルビッシュ選手、一点を取られましたが、魔球を投げました。
スローモーションで何回も映されます。
去年、野球の歌を作って、ダルビッシュ選手の歌も一首入れました。
投げはじめるとき顔はキャッチャーを見ています。
投げきるときは反動で顔はぶんぶんとなり体の外を首ごと向いています。
ボールは回転がかかりながら、軌道を描きます。
などと・・歌にならないか観察していました。
魔球は何でもない時にふっとできた、投げたらできた、とダルビッシュ選手はこたえていました。
常に新しいことを考えて練習しているからでしょうね・・。

土屋文明には「伊予を思ふ」「伊予の国」「愛媛の歌」といった小題を持つ歌がたくさんある。
  グレープフルーツ恐れて夏柑伐りしといふ愛媛の歌を長く忘れず          
  魚を売りつつ歌を作るといふ一本松のおかみさん健かなりや
                       『続々青南集』
これは昭和46年の「愛媛を思ひて」と題する一連の歌。この年はグレープフルーツの輸入が自由化された年である。一首目はその自由化の影響を受けて、夏柑(夏みかん)の木を伐ることになった農家の人のことを詠んでいる。二首目は魚の行商をしている人だろうか。「一本松」はおそらく愛媛の地名である。
これらの歌は、その内容からもわかるように、新聞歌壇の投稿歌について詠まれた歌である。文明は昭和27年10月、「愛媛新聞」に愛媛歌壇が新設された際に、その選者となったのだ。文明の伊予の歌のほとんどは、その「愛媛新聞」に発表されたものなのである。
  伊予の国の村の名町の名幾つかは覚えて二十五年の選歌
  ただ歌につながりて伊予の国を知り繰りかへし作る伊予の国の歌
                      『青南後集』
これは昭和52年の「愛媛歌壇の人々に」と題する一連の歌。25年という長きにわたって愛媛歌壇の選を続ける中で、愛媛の地名も覚え、愛着も湧いてきたのだろう。
この時点で、文明は既に86歳。そして昭和60年、94歳の時の「伊予五首」に至るまで、文明は数多くの愛媛県の歌を詠んだのである。

梅雨が明けて夏らしい天気の続く京都。
今日は13:00から永田家で、8月号の再校&9月号の割付作業。参加者約20名。三連休の最終日にもかかわらず、多くの方が参加して下さった。
手作りハンバーガーやロールパン、お菓子などを食べながら、ひたすら作業に打ちこむ。8月号は全国大会の開催地にあわせて「松山・道後温泉」に関する文章が2本。全国大会に来られる前にぜひお読みください。
17:00まで作業して解散。次に会うのは、いよいよ全国大会である。

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