4月号から 連載「塔」を読む が始まった。
創刊70周年記念号(2024年4月号)では「創刊初期の「塔」を読む」という特集を行った。創刊の1954年から5年分の「塔」を読み、各年秀歌20首選をし、その年の誌面の様子を振り返るエッセイをつける、というものだ。これを連載化したのが「「塔」を読む」で、記念号特集の続きの1959年から高安国世が亡くなる1984年まで、毎号1年分ずつ読んでいく。執筆者は毎回変わる。
私は今年の5月号で1960年を担当したが、これがまあ大変な年で安保闘争のまっただなかだ。清原日出夫の「不戦祭」が掲載されている(2・3月合併号)。誌面では「生活と政治」というテーマで特集や寄稿が行われ、短歌にはまったく触れることなく、「生活と政治」が論じられていたりする。「教科書問題」を取り上げて、会員が意見を寄稿していたりする。「塔」という結社が、短歌を核として集いつつ、短歌にとどまらない、社会にコミットする「共同体」として機能していたことが伝わってくる。
そんな中、勝藤猛の歌に立ちどまった。
雪の原ポプラ枯木のひろがりて午にはパンの匂い流れ来 (4月号)
日本皇子誕生を告ぐるパシュト語紙幾部も買いて昂りている (5月号)
ロシア人道路工夫ら休日をカーブルへアメリカ映画見に来る (7月号)
雨期過ぎし大気に踊る言葉らの幾ばくか我に親しくなりぬ (7月号)
草原のこの町暗く眠りゆき銀河の落つるあたりソ連か (12月号)
勝藤のところに来ると、誌面に違う空気が流れる。勝藤のエッセイ「カーブルの冬」(4月号)によると、その前年(1959年)に「パシュト語」を学ぶためにアフガニスタンの首都「カーブル」へ渡り、そこの大学の文学部で学んでいたらしい。ウィキペディアの情報が正しければ1931年生まれで、アフガニスタンに渡ったのは29歳前後と思われる。彼はのちに東洋史学者、ペルシア語学者として大学教授になった。1954年京都大学文学部卒業らしいので、どこかで高安国世と接点があったのか。あるいは別のつながりがあって「塔」に関わることになったのか。バックナンバーをさかのぼれば分かるかもしれない。
勝藤猛という人そのものも興味深いが、彼の歌に立ち止まったのは、ここに、私たちの知らないアフガニスタンがある、と思わせられたからだろう。パンの匂いや新聞、アメリカの作品を上映する映画館、大学で言葉を学ぶ日々、銀河の下に寝静まる町。そういう日常が1960年のアフガニスタンにはあったのだ。
今、日本の外務省の海外安全ホームページでアフガニスタンの「危険情報」を開けば、その地図は赤く塗られている。すなわち危険度レベル4、「退避勧告」が出ており、どのような目的であれ渡航は止めるようにと書かれている。「アフガニスタン」と「留学」がイメージのうえでまったく結びつかない、そんな世界で生きている者の感覚からすると、勝藤の歌は夢幻というのか、信じられないような思いで、しかし大切なものを目撃しているような思いで、読ませられる。
