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アーカイブ "2026年"

岡部史です、こんにちは。

過日の当ブログで、高校時代の仲間が主宰している、東京都内の散歩会に
参加したことについて書きましたが、その折有栖川宮記念公園に立ち寄ったことにも
触れました。その園内を仲間たちと歩いていた時、何人かが、立ち止まって
何か見ているのに気が付きました。その中の一人が、「これ、な~んだ?」と
話しかけてきたので、「え、木の実? あれれ?」

そう、木の実というには、不思議な場所に生っていたのです。葉の上に・・。
これが、話に聞く、虫こぶ、だったのでした! 私は身近に見るのは初めて。
気持ち悪いかも、と思いながらも、つい見入ってしまいました。

虫こぶとは、昆虫とかダニとかが、植物の遺伝子に作用して、組織を異常に
発達させ、ここに卵を産み付けて、食糧供給地、兼シェルターとして利用する、
といったものらしい。この中には多分、アブラムシの子とかがいるのかも。

この虫こぶ、人間にも利用される例があるのだとか。たとえば、マタタビ酒に
利用されるのは、マタタビの生果ではなく、虫こぶの方らしい、というから、
なんとも・・・・。

この有栖川公園、東京のど真ん中の、麻布にあります。かつては、麻の産地だった、
というところからの地名ともいわれていて。のどかな田園地帯だった時期があったのでしょう。

 麻布台とほき木立のあたりにはつばさ光りて鳶の翔(かけ)れる
                   古泉千樫『青牛集』

二度ありし大地震ののち四月分の十首を揃う意地にて揃う/垣野俊一郎『くらやみにひらく』

垣野さんの歌集の冒頭は10年前の熊本地震。一連のタイトルは「前震と本震のあとで」であり「二度ありし」はそのこと。
 
10年と言う短い期間で、ふたたび、さらに大きい?地震に見舞われるというのはたいへんなことです。

熊本周辺のみなさんご無事でしょうか。
大きな被害がなくても、生活にご不便を感じていらっしゃるでしょうし、責任のある立場の方は多忙をきわめているのではないかと思います。

元気を出すためにも詠草を「意地にて」揃えるのもよいと思いますが、まずは安全確保でしょうか。

暑さもきびしいなか、お気をつけてお過ごしください。

相原かろです。

「塔」では、特集「助詞を考える」を企画中です。
(いくつかの論考と公募一首評を掲載予定)

というわけで、塔会員の皆さんからの一首評をお待ちしています。
応募要項・応募先は、「塔」2026年7月号、106ページの募集広告をご確認ください。
(巻末ピンクページの募集一覧からは漏れてしまっています。すみません!)

自作以外の一首について、「助詞」の観点から評してください。
「助詞がない歌」なども面白いかもしれません。

原稿は、毎号の作品一首評のようなスタイルを想定してください(タイトル不要)。
作品の出典も明記してください。
締切は9月15日(火)必着です。
よろしくお願いいたします。

島木赤彦が最晩年に湯治に訪れた「鮎川温泉」について、少し前に書いた。

短冊を書いてもらった町山正利について、ちゃんと「アララギ」を読めば何か書いてあるだろうと思って、そのままにしてあったのだが、当時の「アララギ」にあたってみれば、やはり、ある。そこにあるだけではなく、『日立市史』の、その土地の短歌に関して功績のあった3人のうち1人として名前もあがっている。
もう一歩調べればわかることだが、とことん調べて書こうとすると、けっきょく書けなくなるので、わかったところまで書くとか、書きながら考えるとか、そういうスタイルで行きたいと思う。「そんなこと知らんのか」というご指摘をいただければありがたい。

さてその町山正利であるけれど、「アララギ」で島木赤彦選歌の欄、赤彦没後は一時的に藤澤古實、土田耕平の選歌を受けたりするが、基本的には斎藤茂吉の選歌欄に出詠している。戦時中までは「アララギ」でたどることができたが、戦後は「新泉」ほか、いくつかの雑誌に所属していたらしい。1930年前後などは、茂吉選歌欄の佐藤佐太郎と同じページに肩を並べていたりもした。

赤彦と面会した時の歌、そして訃報に接した時の歌を引く。

鮎川の冬の温泉(ゆ)宿に先生といまし正しく逢へる嬉しさ/「アララギ」1926年4月
名にし負ふ鮎川の温泉(ゆ)の驗しさへなかりしものか遂に逝きませり/ 同 6月

「正(まさ)しく」「驗(しる)し」だろう。

10月号(島木赤彦追悼号)には「鮎川で逢うた先生」と題しての文章が載っている。

鮎川濱の島崎館といふ旅館に、御滯在中との先生からのお便りを戴いたのは、一月十日の夕暮だつた、私の住んでゐる助川町からは、二十五町許りへだつた鮎川濱は、夏期ならばともかくも、冬期中はどの旅館にも、客などは滅多にない程淋しいところ(略)先生は何にお出でになつたのだらう、と疑問に驅られながら闇みの中に吠ゆる樣な冬海の荒い浪音を聞き乍ら、私は畑中の淋しい夜道を、急いだ

25町=2.7km程度。若者の足で急げば30分かからないだろう。鮎川温泉はそれなりに繁盛していたのかと思ったが、そうでもないらしい。夏は海水浴を兼ねて宿泊客が多くなるけれど、冬は何もない。湯治をするといっても「名にし負ふ」というのは、いささか文飾という感じになるのではいか。
呼び出しただけのことはあって、赤彦はずいぶん町山青年(明治32年/1899年6月生、このとき26歳)のことを気にかけていたらしく、暖かい言葉をかける。

「君の歌はお母さんや、姉さんの事を詠まれたのが、いつも生きてゐますね、あの調子で進んでゆかれると好い、そしてあまり間口は擴げない事です、歌會なぞへ出席しますか、實は私は歌會はあまり好きぢやないんです、歌會へ出席したつて、決して淺くなればとて、深くなることはありませんよそれよりも、三四人位氣持の合つた同志がしんみりと歌の話でもした方が、どれ丈け好い結果を得るか知れません、アララギの連中も時々はやりますがね、……(後略)」

そのまま、「あの調子」で進んでゆくとよい。それはよいとして「間口は擴げない」と言う。そしてまた歌会なんか役に立たないというようなことを言ったらしい。もちろん、間口を広げたり、いろいろ知ったかぶりの批評にさらされると動揺することはある。ふりまわされて自分を見失う人もいるだろう。だが、それでよかったのか?とも思う。
町山自身も、言葉通りにそれを墨守するわけではなく、やがては地域の他結社の人ともつきあうようになるし、地元の歌会のまとめ役なども担うようになるわけだが。

ところでこの時代の「アララギ」の選歌欄は、選歌しながらときどき短評がさしはさまれる。赤彦の選歌欄ではこんな感じ。

「電氣文藝の貴作の方が生きてゐた」1921年6月
「赤曰。少數の歌に力を籠め給へ。」1922年2月
「赤曰。文字分るやうに願ふ。」1924年7月

一つめは、おそらく「電氣と文藝」。現物を確認することはできていないが、寺田寅彦が執筆していたことなどが知られている。投稿欄の短歌を島木赤彦が選んでいたらしい。町山正利は日立製作所に勤務していたので、あるいは「電氣と文藝」の投稿から、島木赤彦や「アララギ」に接近したということかもしれない。それにしても、他の雑誌の作品のほうが「生きてゐた」というのも、なかなかな短評である。
「赤曰」というのも面白い。「少數の歌に力を籠め給へ」は赤彦らしい。そして「文字」。達筆だったのか癖字だったのか。

さらに、赤彦没後にもいろいろ書かれている。

「假字遣ひ違ひ多し。辭書引かれたし」1926年7月 藤澤古實選歌
「評。文字を楷書に願ふ。假名づかひ勉強を乞ふ。」1928年10月 斎藤茂吉選歌

詠草を掲載している直後に、直接に、つまり名指しでの注意である。昨今の雑誌では、なかなかこんなふうにはしないだろうが、当時としても、「書かれてしまった」と受け止めたのかどうか。

ともかく、少々のことにはめげずに歌を続けることは大切なことだ。

読めるような字で丁寧に、仮名遣いなどは確認しながら間違えないようにしてほしいとは思うが。

鮎川温泉のこと

子供の頃、絵本はなかなか高価で、ほとんど買ってもらった記憶がない。
どの家庭でも似たりよったりだったので、不満も抱かず、外で泥だらけに
なって遊んでいたのだから、それもよかったのだが。

子供の本を翻訳するようになってから、「絵本のことば」「絵と言葉の関係」も
学ぶため、ずいぶん色々と買い込みました。肌になじんで、何度も読み返したくなる
絵本というのは確かにあり、また絵柄が素晴らしくて、ただ眺めているだけで
心が満たされる、という本もあり・・・。子供の頃、こんな本に触れていたら、
と、少々悔しく思う、という経験もいたしましたデス。

悪い子がいたずらをする場面だけ何度も絵本を読んでほしがる
                  川本千栄『樹雨降る』

子供が絵本と共に暮らす時間の濃さ、を思います。

先日、絵本作家の林明子さんの訃報を耳にしました。私は彼女の絵本が大好きで、
手元に置いて、眺めていることも多かったので、かなり落胆しています。
最近は確かに、新作が出ていないようでしたけど。ご冥福を祈ります。

先回に続き、麻布山善福寺について、ですが、実はこの寺は
安政6年(1859)に初代アメリカ公使館として使われ、
タウンゼント・ハリス初代公使と館員が滞在していたのだそうです。
境内にその記念碑を見ることができます。

ここからアメリカと日本との本格的な交流が始まったわけで、近代日本の
創造を模索していた福沢諭吉が、頻繁に出入りしていたそうな。
それで、この寺には彼のお墓がある、というわけでした。

ところで、この地で暮らしていた公使と館員らは、当然ながら生活の用を
麻布近辺で賄っていたわけです。食材を求めたり、お酒を飲んだりもしたはず。
それらの店舗はもう残っていないのですが、唯一、ハリスの散髪を担った
床屋さんが今も残っている、と聞き驚きました。江戸時代からの散髪屋さん!

前回「東京遊学散歩」についてかきましたが、その「広尾から麻布十番まで」の
散歩会の続きです。有栖川公園で休憩したあと、麻布氷川神社などをめぐり、
各国の大使館が立ち並ぶ地域を抜けて、たどり着いたのが麻布山善福寺でした。
少し高台にあるので、皆で登っていきます。当日の参加者は二十数人ほどでした。
奥にちらっと見える、少々奇怪な建物は、元麻布ヒルズフォレストタワー。

平安時代に弘法大師によって開かれ、鎌倉時代には親鸞聖人が訪れています。
それを機に、浄土真宗へ改宗したらしい。けっこう柔軟(ややいい加減?)
なんですねえ・・・。

境内には親鸞聖人が持っていた杖を逆さに刺したところ、枝葉がついて、
ここまで大きくなった、というさかさ銀杏の木が立っています。都内で
最古の木なのだとか。樹齢750年あまり、みごとです。

ところで、このお寺には、福沢諭吉のお墓もあります。
その理由などについて、次回に書くことにしますね。

先回の記事で触れた、「東京遊学散歩」の会は、私の都立高時代の同級生を中心に、
東京の町の歴史や地理、文化に興味を持っていて、かつお散歩で健康を保とう、と
いう意思を持つ人たちの集まりですが(単に、後の飲み会のため、という人も?)。

毎回、散歩コースと立ち寄り場所、その地域や施設の地理や歴史について、
詳細な説明と地図を掲載したパンフが用意されます。今回のお散歩は
「広尾から麻布十番まで」

これまで、広尾や麻布にはもちろん、出かけたことはありましたが、
駅の周辺だけ、または大使館(そう、この地区は大使館密集地)へビザなどの
申請に行く、という程度。でも、歩いてみると、意外な発見が次々に・・・。

これまでは気づかなかったのですが、意外に起伏の多い地域なのでした。
まさに、こんな歌のとおりでして。

 起伏見えざりし街区の路地に入りて思はぬところに石段がある
              真中朋久『エフライムの岸』

先月、この「東京遊学散歩」の二十周年を記念して、素敵な記念誌も作って頂き
ました。私もかつての日本橋界隈で行われたお散歩会で詠んだ歌を盛り込んだ
一文を掲載して頂きました。あまり熱心な会員ではなかったのに有難いことです。

岡部史です、こんにちは。

こちらは、東京都港区にある有栖川記念公園に立つ、新聞少年の像です。

昭和の中期、新聞配達の場に、多くの少年たちが活躍し、歌謡曲にまでなったのをうっすらと覚えています。
そうした少年たちを顕彰しようと建てられたものらしいのですが。

石道をホールへ急げばゆくりなく「新聞少年の像」にぶつかる
少年の学生服の胸うすし笑むとも言へぬ表情をせる
               村上和子『しろがね』

この作品を思い出したのですが、この有栖川公園の像とは違うみたいです。
だいたい、
私が写した像の少年は、学生服は着ていませんし・・・。それで調べてみると、
村上さんが「ぶつか」った像は、横浜の日本大通りにある像とわかりました。
他に、広島や富山にもこの種の像が建てられている、とわかり、少々驚きました。

私が学生時代にも、新聞店に住み込み、新聞配達をしながら大学に通う学生が
まだ少なからずいたことを思い出します。

都心の有栖川記念公園を訪ねるきっかけを作ってくれたのは、私の都立高時代の
同級生、古屋伸樹君と佐藤由希さんが中心になって活動している「東京遊学散歩
の会」に十年ぶりくらいに参加したからです。なんと、ちょうど先月で、二十周
年になると聞き、驚きました。私は初期の頃の数回を除き、ほとんど参加できて
いなかったのですけど。次回は、その遊学散歩の会について、触れてみますね。

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