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アーカイブ "2025年07月"

本当に暑い日が続きますね~!
今日(7/30)には、近畿で40℃超えの地点があったとか。
私の住んでいるところも、それに近い暑さだったように思います。
こうなると、外出そのものが、大袈裟でなく「命がけ」という感じがします。

さて、このような酷暑になると、我が家で欠かせないのがアイス珈琲です。
あまり珈琲の飲み過ぎはよくないらしいですが、それでも冷たくて喉ごしがよく、頭もすっきりさせてくれるアイス珈琲は常備必須です!
でも、アイス珈琲を淹れるのは、案外面倒くさいんですよね。

そこで、2~3年前からは「水出しアイス珈琲」を作るようにしています。
これ専用のポットを持っているので、そのフィルターに挽いた珈琲豆をセットし、規定量の水をゆっくり注ぎます。
後は、冷蔵庫で8時間ほど寝かせるだけです。
これだと、そこまで手間ではない上に、ある程度の量がいっぺんにできるので、とても便利です。
しかも、美味しい!

ただ、困ったことが…
それは、特に今年はすぐに飲んでしまうため、ほぼ毎日のように作るはめになっていて、珈琲豆(私はアイス珈琲専用の豆を買っています)があっという間に減ってしまうのです。
近いうちに、また仕入れに行かないと…

ところで、この自家製のアイス珈琲で作ったカフェオレ・シャーベットは、自分で言うのも何ですが、絶品です!
作るのに少し手間はかかりますが、暑い昼にこれをちょっとずつ食べていると「うまうま~!」と笑顔になってしまいます。
なんか怪しい人みたいですが(笑)

というわけで、みなさまも熱中症には十分ご注意くださいね。
大変な夏ですが、元気に乗り切りましょう!

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マスキングテープの通販をいたします。
「塔」創刊者・高安国世の
「僕たちは短歌を愛して集つた。」
というロゴ入りです!
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六月上旬、大阪の万博会場へ出かけてきました。
万博を記念して行われた子供作文コンクールの、審査員の
仕事を引き受けていて、EXPOホールで行なわれた表彰式に
参加するためです。朝、九時過ぎに夢洲駅に着いたのですが。

大変な混雑ぶりでした。関係者専用の入り口で、荷物検査を受け、
東ゲート側からはいります。真ん前に巨大な大屋根リングが
聳え立っていました。中に入ると、一瞬、森の中に迷い込んだよう。

当日は朝から青空が広がり、かなり強い日差しが照り付けて
いましたが、リングの下はひんやりとして、風も通っていました。
エスカレータを使って、大屋根の上に登ってみました。

真ん前にある、アメリカ館、フランス館にはすでに長蛇の列が
できていました。EXPOホールでの式典終了後、少し時間があったので
パヴィリオンに入ってみようかとも思ったのですが、どこも混雑していて、
結局そのまま、ホテルに帰ってしまいました。

 雨の日は背泳ぎで過去へとゆける大屋根リングをずぶ濡れにして
  大森静佳(朝日新聞7月10日朝刊寄稿「夢洲で触れる 対話がひらく」)

大森さんが訪れた日は雨だったんですね。

以前に、札幌の街を歩いていて「おだし」の自販機に
出会ったことについてこのブログに書いたことがありました。
今年の年頭に、鎌倉や藤沢を歩いたのですが、頻繁に見かけたのが
クッキーの自販機! 我が家は東京の南西の外れにあり、神奈川県と
隣接しているのですが、この種の自販機を見たことはなかったので、
ちょっとびっくりして写真に撮っておきました。

それで思い出したのが、滞米中に通っていた大学の構内にもクッキーの
自販機が置いてあったこと。25セント硬貨を入れると、四枚ほど入った
小さな包みが出てくる、というもの。同じクラスにタミーという名の
イスラエル出身の女性がいて、ある時「お腹空いたよね」と言い出すので
買って一緒に食べたことも思い出されます。
 

ハーモンタッシェン焼きながら思う 便槽に隠れ生き延びた少年のこと
                  ジャッシーいく子『向かい干支』

ハーモンタッシェンは東欧系のユダヤ民族の間に伝わる、クッキー生地で作る
三角形のお菓子で、中央にデーツのジャムなどを練り込むことが多いようです。
タミーの祖母もポーランド出身のユダヤ人で、かのナチスの迫害をようよう
生き延びた、と聞きました。まだ世界のあちこちで戦火が続いている。
クッキーの自販機がさりげなく街角に立っている、そんな日常が世界中に
続くことを切に願うのですが・・・・。

私が初めて訪れた本格的な水族館は、かつての清水市(現・静岡市清水区)の
東海大学海洋学部付属の水族館(現在は閉館されている)。公務員をしていた
二十代、仕事の帰りに立ち寄り、入り口のすぐ正面に据えられた円柱形の大型の
水槽を前に、動けなくなった。短歌を始めて間もなくの頃で、この美しく、かつ
凄惨な施設に、すっかり魅入られ、「ガラスの檻」と題して連作を作ったりした。

あれ以来、旅先で水族館があると必ず立ち寄るようになった。

写真は、昨年訪れた、美ら海水族館で。
こんなに一度に沢山の生物を見られる施設はなかなかない。その美しさ、
豪華さに圧倒される思いがする。
やはり、生き物がこんなに綺麗な狭い場所に押し込められているのは、
不自然で、残酷なことだとは思う。思いつつ眼が離せないのである。

 

本当は魚類は飛んでいるのかも鳥類は泳いでいるのかも
            池田行謙「七割配架」(「柊と南天」8号より)

岡部史です、こんにちは。
一か月ほど前、我が家の玄関先に現れた一匹の昆虫。
ヨコヅナサシガメと呼ばれる、カメムシの仲間らしい。
カメムシとしては大きく、体長は数センチ。
目を奪われたのは、おなかを縁取る黒白の美しい模様。

昆虫には、シャチホコガみたいな、ごみの塊にしか
見えないような醜い(保護色なんだろうけど)種類も多いが、
こんなに綺麗なものもいて、つい見とれました。
他の昆虫に口を突き刺して体液を吸う、肉食系の虫らしいが。
それでサシガメと名付けられたらしいが、ヨコヅナは横綱?

虫の名前もいろいろで、 

年一度わき出だすごと飛び来たり浜を覆えるクロバネキノコバエ
               永久保英敏『いろくず』

にはちょっと驚いた。シイタケなどに食害を及ぼすため名称に「キノコ」が
入っているらしい。分かり易いけど、ちょっと長いかな。
ちなみにこのハエは幼虫が隊列を組んで行進する習性があるので、
「armyworm」とも呼ばれているそうである。

先日書いた「大正時代の鉄道の旅」にも関連するが、少し前に、こんな歌を見つけた。

塩湯浴み癒えざりし赤彦悲しきに今日下孫(しもまご)の駅の名も見ず/土屋文明『青南集』

「下孫」というのは、陸前浜街道の宿場。常磐線ができたときに駅は「下孫」となった。その後、いくつかの村が合併して、多賀町になったときに、現在の「常陸多賀」になっている。島木赤彦にゆかりのある下孫駅の名は、土屋文明のこのときの旅では、もう無くなっていた。
下孫=常陸多賀は、私の出身地の最寄り駅でもある。とはいえ実家からは歩いて40分ほどかかる。昔はバスの便も本数があったが、最近はなかなか不便になった。

島木赤彦がここで何をしていたのか。「癒えざりし」というからには、晩年の病気のころのことだろうが「塩湯」とはどういうことか。しばらく謎のままだった。

それが、ふと、Google地図を拡大していたら、「島木赤彦歌碑」というのが「史跡」のアイコンで示されている。そんなものがあるのは知らなかったが、私の実家の前を流れている川を下って海に出るあたりである。
検索をすれば紹介記事などもでてくるが、どうやらかつてここは海辺の行楽地として、それなりに賑わっていた。その昔は「焼石湯」といって、海水に焼いた石を入れて湯にするとか、そういった温浴が名物であったという。
しばらく前までは、あらかじめ予約をすれば宿泊できるような旅館がいくつかった様子だが、砂浜も浸食されて荒涼としており、海水浴場から少し離れていて往時の賑わいはない。

写真は常磐線の車窓から。東京から北上していて、はじめて海が見えるのは、常陸多賀―日立間のここ。橋が見えているが、その先左岸の植え込みのあたりに歌碑がある。

歌はこういうもの。

夕毎に海の南の雲を染めて茜根にほへり風寒みつつ/島木赤彦

これもしばらく謎だったのだが、今、調べ直したら出てきた。

大正15年(1926年)というのは昭和元年になる年だが「鮎川にて 町山正利氏へ 一月一〇日」として『赤彦全集』(岩波書店、1969年)の第1巻「人に送りたる短歌」のところにある。
その前後の書簡は、全集第8巻にいろいろある。

まず「鮎川温泉島崎館より 多賀郡助川町 町山正利氏宛」という葉書。句読点が無いのがいくらか読みにくいがそのまま書き写してみる。

昨日こゝへ來ましたまだ三四日は居るつもりです御ひまならばやつて來給へ 一月九日

町山氏の名前は、地元で発行されている書物にも見える。歌碑の歌が書簡類にないということは、短冊かなにかに書くことを求められたということではないかと想像する。歌の姿も、即詠のような感じといえば、そういうものだろう。

こののすぐあとには、長崎高等女学校寄宿舎にいる三女の水脈への葉書がおさめられている。

水戸から五つ六つ北の驛(下孫)から廿四五町右へ下つて鮎川温泉へ來ます家の裏は直ぐ砂濱で外海の波が押しよせて騒いでゐます湯は海水をわかしてそれに靑い石を焼いて入れるといふ奇妙な湯です何だか温まりさうです萬事注意して勉強すべし四五日して東京へ歸ります 一月九日

おそらく同時に投函または宿の人に托して郵便局から発送したのだろう。「右へ下つて」というのは、海岸台地の上を走る線路に沿って北上しつつ、右のほう、すなわち海側の坂を下ってゆくのが、そのとおり。坂を下りてゆくと冒頭写真の橋を渡ることになる。海水に焼石を入れて湯にするのではなく、湯の中に焼石を入れるというのは、営業ということを思えば、そういうことかもしれない。

滞在は、実際に「三四日」ほどのこと。アララギ発行所宛ての葉書も書いているので、土屋文明の記憶に残っているのもそのあたりだろうか。

このあいだ、この欄で梶原さい子さんが仙台文学館の「詩人・山村暮鳥展」のことを書いておられた(2025.06.29)。

どんな展示だっただろう。短歌にかかわるものは出品されていただろうか。

山村暮鳥にかぎらないが、小説家や詩人の「全集」の目次の雑録編のようなところをチェックすると「短歌」の項目があることがある。読んでみると、それはそれで、さまざまに発見もあるものだ。暮鳥の場合には、4巻本全集の第1巻の末尾のあたり。第2巻にも詩が続くから、詩業の中心に「短歌」が置かれているように見えないこともない。

歌数は350首弱。重複もあるが300首を越えて、つまり歌集1冊ぶんぐらいの歌がある。

初期は「白百合」。明治37年(1904年)2月から、ほぼ毎月掲載がある。最初期の「白百合」1巻4号明治37年2月はこの3首。当時は「木暮流星」を筆名にしていたらしい。

さらば君白衣さきてわれ行かん野にはいなごの餓(うゑ)もあるまじ
罪かわれいかに天には小さかれ恋うて歌うて母にいねん身
泣かで往ねこれせめてもの月の夜ぞ春の御母のいとひますらん

「明星」系の人々(前田林外、岩野泡鳴、相馬御風)によって創刊された「白百合」なので、なるほど「明星」ふうの詠みぶりというのだろうか。空想や陶酔感のゆくさきが正直ちょっと読みきれないところもある。

もう少し後の時代の、これは『中学世界』(10巻7号 明治40年6月)。「鳥なれば」と題する7首から。

鳥なればとへどこたへずいづかたへ鳴きつ野を行き山をゆくらし
山の夜はふけぬ廂(ひさし)にほす鮭の尾よりしたゝる霧のしづくに
春の鐘けふもことなく大浅間けむり吐きつゝたそがれにけり

時代の違いか、ずいぶんリアリズムに寄ってきた感じがする。「鳥なれば」は「鳥であるので」。飛んでゆく鳥というのは、筆名「暮鳥」にも通じるところ。吊るした鮭というのは高橋由一の絵なども思い出すが、昔はごくふつうのことだっただろう。「霧のしづく」だけでなく、魚の油なども滴るようで、嗅覚までも刺戟される作品。
浅間山は明治40年の前半ならば1月、3月に噴火があった。この翌年からは遠方からも爆発音が遠方でも聞こえ、広い範囲で降灰があったり、死傷者多数の被害をもたらす噴火なども多くなる。何かそういうことも予感させるような風景であるかもしれない。

菱採りよ菱採るごとき手つきして男とらずやおもしろからむ
空遠くわたる小鳥のむれを見るわれのまぶたのさみしき日かな
平(たひら)とは黒き烟(けむ)吐く《えんとつ》のもとに小さきはなにほふ町

こちらは『秋田魁新報』(大正元年10月10日)に発表した「滅びゆく秋の日のかなしき歌」10首から。原文に傍点だったところは《》で示した。

沼に盥舟などうかべて生い茂る菱に手をいれる作業に従事するのは女性が多かったのだろう。キリスト教(聖公会)の伝道師という立場には、ちょっとふさわしくないような、エロスを感じさせる「菱採り」の歌。そういうところが山村暮鳥の魅力であるとも言われているらしい。「空遠くわたる小鳥」は、やはり「暮鳥」のモチーフ。
煙突の歌は、暮鳥が大正のはじめから7年ほど住んだ福島県いわき市。当時は平(たいら)町。いわき市在住の小林真代さんによれば、この時代ならば煙突はレンガ工場あたりではないかという。

詩人の短歌ということなら、詩のほうの表現との共通点や違い、どちらかがどちらかの原型になっているとか、そういうことの分析もすべきだろうけれど、ちょっとその準備は無い。ひとまず。
 
   *
 
写真は菱の花。

明治時代の中頃以降、鉄道網が整備されるようになると、遠方への「旅行」というのが、それほど特別なことではなくなった。線路を延長すれば旅客数も確保しなければならないから、のちの国鉄である鉄道院(1908~)や鉄道省(1920~)が「旅行案内」的な冊子を刊行したり、民間の出版社からもさまざまに旅行案内書が刊行されるようになる。とくに大正10年(1921)の鉄道省『鉄道旅行案内』は、吉田初三郎による絵も美しく画期的なものだったらしい。大正10年版のこの本は「刊行後40版を越えるベストセラーになり、旅行ブームを巻き起こしたという」(平田剛志(2012)「鉄道省編『鉄道旅行案内』諸版の比較研究」立命館大学大学院先端総合学術研究科「コア・エシックス」 8 513-523)ことだが、こういう場合、ある部分は〈時代が求めていたものが《これ》だった〉ということもあるのではないか、と思う。

さて、その前年、前々年に「旅行」に関する短歌のアンソロジーが出ているので、すこし覗いてみよう。

   *

まず、佐佐木信綱(編)『和歌名所めぐり』(博文館、1919年)。編者である佐佐木信綱の緒言を、少し長めに書き起こす。

 旅行の樂しびは、人生の最大快事の一つである。殊に近時の如く、交通の機關が發達し、旅宿その他の設備も完全になつてゆくにつれて、旅行は益々樂なものとなつて、草枕と云ふ枕詞にのこる古人の旅行觀は、書物の上の昔がたりとなつてしまつたといへる。併し眞の旅行の樂しびは、樂な交通機關を利用して、完備した旅館に泊まるといふのに盡きてゐるとはいへない。美しい山や、ゆたかな海の景色を眺めたり、歴史の古跡をたづねて昔を忍んだり、珍しい風俗や習慣を見たり、すべて日常平凡な生活から離れて、新しい境遇に身をおき、新しい刺戟に接するといふこと、ここに旅行の眞の樂しびはある。
 かくの如き旅行の樂しびを、一層増しもし、また補ひもするものは歌である。その所その地に臨んで、古へ今の作者歌を囘想するといふことは、歌心のある人はもとより、未だ歌心のおこらぬ人にも、旅の興を添へるものである。
(略)
日本國中凡てに渡って網羅することは他日にゆづり、まづ日本國中の主なる汽車の沿線、汽船の沿岸などについて、主なる名所古跡を詠んだ歌を選ぶことにした。
(略)
古来の名所の歌によくみる、單に古歌の歌枕をそのままに詠みこんだだけで何等の生趣もないやうな作は出来るだけ捨てて、成るべくその實境に就いて詠んだ作で、眞に旅客の心に觸れ、情を動かすに足る、生きた歌をとるのを眼目とした。(後略)

「樂(たの)しび」とか、やや古風な感じの言い回しもあるけれど、旅行観の変遷などについても、じっくり練られた文章であると思う。旅行の今日的な意義とか、文芸および文芸史の知識・素養が旅の経験を深くするというのは、世の中の大多数の人には関係ないかもしれないが、短歌にかかわる以上は、心して読むべきところだろう。
最後の部分の、古歌の「歌枕」との決別というあたりも、大正時代の意識とか、マニュフェストという意味でも、なかなかに味わい深いところがある。

来年の全国大会は松江。そのあたりの歌を拾ってみる。

    美保の關
みほが崎よる浪のほのいちじろく神世のあとぞこゝに殘れる/三條實美
    安來
日本海のゆふべはさびし燈臺の灯も見えぬまで秋雨降れば/錦織幸子
    松江
出雲冨士はつかにかゝる雲を見て旅の夕べをさびしみにけり/藤井喜一

三條實美は明治初期の政治家。元勲。錦織幸子と藤井喜一は「心の花」に所属した人であるらしい。

   *

もう一冊は 半田良平(編)『名所めぐり最新旅行歌選』(紅玉堂書店、1920年)。こちらは「凡例」というのがマニュフェストに相当する。半田良平は、こんなふうに書いている。

一、本書に収めた歌は、明治三十年前後の新短歌興隆以来、今日に至るまで、約二十餘年間に亘つて詠まれたものゝ中から抜萃したもので、既に名を爲した大家の作は勿論、新進諸家の作までも出来るだけ多く網羅したつもりである。この意味に於て、本書は一面、明治大正歌壇大觀の趣をもつてゐる。
一、排列順は主として、院線系統により、支線に亘るものは、その都度これを明記しておいた(略)
歌數は合計二千七百九十五首である。(後略)

佐佐木信綱が古典まで視野をひろげつつ、空想的な歌枕ではない実感を重視したのに対して、こちらは明治後期から大正はじめまでに限定して、もっと現代的なアンソロジーにしたい。旅行の歌に限定しながら「明治大正歌壇大觀」というのが、壮大な意気込みだ。さらに、鉄道の路線とか、乗換案内のような部分にも工夫をこらして、違いを出そうとしている。
1年違いの刊行。後発の半田良平と紅玉堂に対抗意識がなかったはずはない。それが如実にあらわれた「凡例」と読めるのではないか。

どちらがどのくらい売れたのか、それぞれの本を読みながら旅行をした人がどのくらいいるのかわからないが、いずれにしても、鉄道旅行ブームの到来という勢いを感じさせるものだ。

こちらも、作品を拾ってみる。

    宍道湖(松江驛)
宍道湖に暮れてなづそふ灯火(ともしび)はいざり火なれか遠くはゆかず/野澤柿葺
    玉造温泉(湯町驛)
遠世人埋めおきたる石の棺見つけ出されて日の下にあり/木下利玄
    出雲大社(大社驛)
久方の天がしたには言絶(ことた)えて嘆きたふとび誰か仰がざらむ/長塚節

野澤柿葺は「潮音」の人であるらしい。木下利玄と長塚節は説明不要だろうけれど、「湯町驛」は現在の「玉造温泉駅」。その少し前に、米子から境まで行って戻って「更に本線に戻りて西す」という注釈がある。長塚節の歌の前には「出雲今市より分岐する大社線によりて」とあるが、「出雲今市」は現在の「出雲市」。JRの大社線は廃止になっいて「大社駅」も存在しない。今なら一畑電鉄線で「出雲大社前」ということになるだろう。
木下利玄の作品は「玉造築山古墳」のこと。

   *

そんなふうな歴史を確認したり、作者名から、これは誰だろう?と調べたりしていると、いろいろ、発見があって面白い。
自分の住んでいるところ、故郷の周辺が、どんなふうに詠まれているのか。誰がそこに来て歌を詠んだのか。そんなふうな読み方もできるかもしれない。
 
いずれも、国会図書館のデジタル資料で読むことができる。

   *

冒頭の写真は東京駅から上野方面。上野東京ラインの急勾配が見えている。

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