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もう、だいぶ前のことになるが、「芥子を植ゑたり」と題して4ページほどの文章を書いたことがある(「塔」2009年4月号)。
高安国世『Vorfruhling』の「雨ふれる野の幾ところ白じろと照るとおもふは芥子(けし)を植ゑたり」から、その「芥子」はアヘン採取のためのものであるに違いないということで、あれこれ調べながら書いた。戦前戦中のころ、北摂の、とくに高槻から茨木にかけては薬用ケシの大産地だった。時代背景とからめて、その時点で手に入った資料、例歌などに依拠して書いたわけだが、当然ながら、その後に見いだされるものもある。

きょう、見つけたのは文章。富永堅一『木草の息』という歌集。富永堅一は「アララギ」の人で戦後は「林泉」に所属する。短歌の「地盤」と言うのも変だが、鈴江幸太郎の創刊になる「林泉」には北摂の人が多く、富永もその一人。この歌集の時期には大病をして歌がほとんどつくれないことがあったらしい。そのリハビリとして書いた散文が歌集中ほどにおさめられていて、これが良い。病床で書いたもの、退院後の自宅療養中に書いたものなど。そしてそのなかに「芥子」という一文がある。

「文芸春秋」に発表された近藤芳美「散り落ちてまた音もなき苞のかげ一夜の芥子の咲き映ゆる灯に」(のちに『黒豹』所載)を枕に、この作品は「鑑賞用の紅い芥子の類」であろうけれど、「しかしぼくは芥子といへば阿片を採る芥子畠と農家の烈しい労働を思ひ出す。今の茨木市高槻市の一部にかけて広範な芥子畠があつた。」と回想を語り始める。

戦時中のケシ栽培の意味については「芥子を植ゑたり」に書いたので繰り返さないが、作業の具体の描写が、なかなかに細かい。

芥子は晩春その白い花弁が散ると、俗にいふ芥子坊主を露出する。この蒴果はやや小型の鶏卵大である。夏期梅雨にはいる前天候のよい時を選んで、愈々阿片の採集が始まる。はじめ芥子坊主に鋭い小刀で二三本の傷を縦につける。すると淡紅柴色の乳液が分泌される。その分泌液は空気に触れると黒褐色に変つてくるが、先行する傷付け役の数歩後に採液係が金へらで掻きとつて、提げてゐる小罐に納める。これを数日おいて数回繰りかへし、蒴果の周囲に何本も傷をつけて果液をことごとく採納する。この黒く膏薬状になつた乳液は竹の皮に塗りつけて乾燥し、後ブリキ罐に収めて政府に納入する。

実際に観察したのか、聞いたことなのか、遠目に見ていたことを聞いた話で補ったのか、おそらくそういったことのいずれかだろうが「農作業に経験のないぼくは、芥子栽培に関して杜撰疎漏な点が処々にあると思ふので、耕作経験者に話を聞いたうへで書きたいと思つてゐたが、病床にその機会がなかつた」という留保をつけている。
もうひとつ、面白かったのはこのあたり。

この栽培採液に際しては、当局の監視は甚だ厳重で、タバコ栽培とは較べものにならない程過酷だつたさうである。だからその時期になると田舎の駐在さんは油断なくそこらを駆けめぐる。それでも時々不埒な密売者や悪徳ブローカーが挙げられるので、茨木署や高槻署は急に忙しくなる。

なるほど、そのとおりであるだろうが、「ここでケシを栽培していたのか!」という驚きと勢いで書いていたときには、そこまで思い及ぶことはなかった。
一つの事柄には、さまざまな人がかかわり、それぞれの立場からは見える風景も違っているものだ。

最も貧しき国が拠点となるといえ芥子を育つる山の谷々/近藤芳美『岐路』

近藤芳美は、後のちに中央アジアの山岳地帯などのケシ栽培のことについて歌にしている。

夕暗にほの白き花の芥子畑の続くかぎりを我が汽車は行く/原ひろし『紫紺の海』

それから、これは和歌山。大阪・北摂から、やがて生産の中心は和歌山のほうに移って鉄道沿線には広大なケシ畑が広がっていたらしい。この歌集は「塔」の昔の仲間が、その祖父にあたる人の雑誌発表作品や遺稿をまとめたもの。たまたま手にとった歌集の編者の名前を見ておどろいた。

たくさん読んでいると、そういう邂逅も、ときどき、ある。

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そういえば、このあいだ「八角堂」欄でも「その後」というタイトルで書いていた。

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