鮎川温泉のこと

先日書いた「大正時代の鉄道の旅」にも関連するが、少し前に、こんな歌を見つけた。
塩湯浴み癒えざりし赤彦悲しきに今日下孫(しもまご)の駅の名も見ず/土屋文明『青南集』
「下孫」というのは、陸前浜街道の宿場。常磐線ができたときに駅は「下孫」となった。その後、いくつかの村が合併して、多賀町になったときに、現在の「常陸多賀」になっている。島木赤彦にゆかりのある下孫駅の名は、土屋文明のこのときの旅では、もう無くなっていた。
下孫=常陸多賀は、私の出身地の最寄り駅でもある。とはいえ実家からは歩いて40分ほどかかる。昔はバスの便も本数があったが、最近はなかなか不便になった。
島木赤彦がここで何をしていたのか。「癒えざりし」というからには、晩年の病気のころのことだろうが「塩湯」とはどういうことか。しばらく謎のままだった。
それが、ふと、Google地図を拡大していたら、「島木赤彦歌碑」というのが「史跡」のアイコンで示されている。そんなものがあるのは知らなかったが、私の実家の前を流れている川を下って海に出るあたりである。
検索をすれば紹介記事などもでてくるが、どうやらかつてここは海辺の行楽地として、それなりに賑わっていた。その昔は「焼石湯」といって、海水に焼いた石を入れて湯にするとか、そういった温浴が名物であったという。
しばらく前までは、あらかじめ予約をすれば宿泊できるような旅館がいくつかった様子だが、砂浜も浸食されて荒涼としており、海水浴場から少し離れていて往時の賑わいはない。
写真は常磐線の車窓から。東京から北上していて、はじめて海が見えるのは、常陸多賀―日立間のここ。橋が見えているが、その先左岸の植え込みのあたりに歌碑がある。
歌はこういうもの。
夕毎に海の南の雲を染めて茜根にほへり風寒みつつ/島木赤彦
これもしばらく謎だったのだが、今、調べ直したら出てきた。
大正15年(1926年)というのは昭和元年になる年だが「鮎川にて 町山正利氏へ 一月一〇日」として『赤彦全集』(岩波書店、1969年)の第1巻「人に送りたる短歌」のところにある。
その前後の書簡は、全集第8巻にいろいろある。
まず「鮎川温泉島崎館より 多賀郡助川町 町山正利氏宛」という葉書。句読点が無いのがいくらか読みにくいがそのまま書き写してみる。
昨日こゝへ來ましたまだ三四日は居るつもりです御ひまならばやつて來給へ 一月九日
町山氏の名前は、地元で発行されている書物にも見える。歌碑の歌が書簡類にないということは、短冊かなにかに書くことを求められたということではないかと想像する。歌の姿も、即詠のような感じといえば、そういうものだろう。
こののすぐあとには、長崎高等女学校寄宿舎にいる三女の水脈への葉書がおさめられている。
水戸から五つ六つ北の驛(下孫)から廿四五町右へ下つて鮎川温泉へ來ます家の裏は直ぐ砂濱で外海の波が押しよせて騒いでゐます湯は海水をわかしてそれに靑い石を焼いて入れるといふ奇妙な湯です何だか温まりさうです萬事注意して勉強すべし四五日して東京へ歸ります 一月九日
おそらく同時に投函または宿の人に托して郵便局から発送したのだろう。「右へ下つて」というのは、海岸台地の上を走る線路に沿って北上しつつ、右のほう、すなわち海側の坂を下ってゆくのが、そのとおり。坂を下りてゆくと冒頭写真の橋を渡ることになる。海水に焼石を入れて湯にするのではなく、湯の中に焼石を入れるというのは、営業ということを思えば、そういうことかもしれない。
滞在は、実際に「三四日」ほどのこと。アララギ発行所宛ての葉書も書いているので、土屋文明の記憶に残っているのもそのあたりだろうか。

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