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あちこち豪雨がつづく。風も強い。
避難が必要になる場面もあるかもしれません。気を付けてお過ごしください。

風も強いので、停電とか、それに伴う断水とか。

   *

とりあえず、安全な場所で古い書物などをぱらぱらめくる(でもないのだが、目を通すべきものに目を通したり)。

なんだこれは……と、笑いつつ、しみじみ味わう。こういうこと、あったなあ。

   うんこの賦          中河幹子
みどり兒の便(つうじ)よろしくこの日ごろ母はうれひのなきこゝちすれ
消化よき黄なるうんこの美しさ言わかぬ子にほめてきかしつ
みどり子を抱きあるきつつうれしけれさはやけき夏のあしたの庭を

歌集には収録されていない。掲載は「主婦の友」(昭和4年8月号)であるらしい。
「言(こと)わかぬ」は〈言葉を理解しない〉ということだろう。

ちゃんと出るものが出るのはよいことだ。大人もいろいろ悩む。
 
ところで、『中河幹子全歌集』の年譜を見ていたら、昭和5年にこんなくだりがあった。

七月、赤坂山王下「幸楽」で白秋会出席。近くに家を借り「ごぎやう託児所」を設ける、女性が時間を得るためなり。十四日「家庭婦人と短歌」と題してラジオ放送す。

「ごぎやう」は作者が所属していた短歌の雑誌。

かつてうちの子どもたちがちいさかったころ、全国大会に託児室をつくって、子連れで参加しやすくしようとしたことがある。その後、長く続いたが、子ども連れで参加しようという人が少なくなって、ちょっと中断の状態だったか。去年も今年も全国大会そのものを断念。集まることができていない。
短歌会の託児所というのは「塔」が初めてのことじゃないか!?などと思っていたが、そうでもなかった。常設?というのもぜんぜんレベルが違う。

もっとも「ごぎやう託児所」は歌人のためというよりは、社会活動に近い様子。ではあるが、たぶん上記掲出歌に登場する子を抱えて、自身の文業と両立させるためというものあっただろうか。
当時のことを思えば、女中さんに子守をまかせるというほうが一般的だっただろうけれど、そうではなく(おそらくかなりの私費を投じて)「託児所」を開設したわけだ。

翌年昭和6年の作品。「ごぎやう」掲載のはず。

託兒所に子らがたのしくうたふ聲わか仕事する部屋にきこえ來

90年ほど前のことである。

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