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火の街にのがれ来りて妻子らと因幡の国にゆふぐれて着く/前川佐美雄『積日』1947

 

前川佐美雄が家族と疎開先の杉原一司の家に着いたのは1945(昭和20)年4月3日でした。ぼくは、ロシアのウクライナへの侵攻を許せない気持ちで見つつ読みつつ、憤りや悲しさや願いを抱えながら、ふと佐美雄の疎開のことを思ったのでした。

いまからちょうど1年前の2021年3月15日付で鳥取大学地域学部によって『杉原一司宛 前川佐美雄書簡』が刊行されました(非売品)。この本には佐美雄が一司に送った75点の書簡の写真とその手紙を翻刻した文字がすべて収められています。ここに掲載されている書簡は一司のご子息の杉原ほさきさんが所蔵されているものです。実は、ぼくも、杉原家を訪れてほさきさんにもし残っている一次資料があればそれらを見せてほしいとお願いしたことがありました。ただそのときはぼくの望みは叶いませんでした。どうして見せてくれないのかとこの幻の一次資料のことを思い、がっかりしました。しかし、その時その裏で、このように整った形で公開される準備がきっと進んでいたのでしょう。佐美雄の75点の書簡は鳥取大学の研究者である田中仁さんによって翻字され、同じく岡村知子さんと松本陽子さんによって点検や修正がなされ、前川佐重郎さんと野中寿々子さんに発刊の許諾を得て、発刊にこぎついたということです。前置きが長くなってしまいました。ウクライナへの侵攻を思いながら、佐美雄の手紙を少し読んでみたいと思います。

1945(昭和20)年3月13日付の佐美雄の手紙には、肋間神経痛については心配しなくてよいが、「軍事訓練に行つて来てひどく痛んでゐ」ることなどが前置きに書かれ、次のように続きます。

 

=====手紙の引用はじめ=====

御招きにあづかつてまことに忝く事情がゆるせば行きたいもの御邪魔したいものと思ひます 都合でひよつとすると御地へ妻子を疎開させてもと思つたりしてゐます こちらは段々とおちつきませんので、−−若しそんな事がおきましたらよろしく願ひます 石塚君数日前に見えました(後略)三月十三日夕

=====手紙の引用おわり=====

 

佐美雄が「疎開」という言葉を一司に告げたのはこの手紙が初めてではないかと思います。文脈から考えると、一司が佐美雄に「機会があればぜひ鳥取にもお越しください」などと誘い、佐美雄はそれに応じるかたちで「忝く事情がゆるせば行きたいもの御邪魔したい」とまずは述べつつ、考えが「疎開」へと進んだのではないでしょうか。あるいは、後に記される通り大阪空襲の酷さを実感しながらの決断であり、お願いだったのでしょう。この3月13日の手紙は、以下に記す3月14日付けの手紙と同一の封筒で送られたようです。

 

=====手紙の引用はじめ=====

拝啓 昨夜別紙のやうなおたよりを認めましたが、今日十四日になつて疎開といふ事について小生の考へか決定しました それはことに唐突ですが母と妻と子供二人、都合四人を御地に送りたいと思ひます 少し遠いので如何かと思ひましたが貴君と石塚君との二人がゐるところならこれは大丈夫だと考へたのです 方々に友人もゐますけれど比較的安全なところで友人の二人、三人とかたまつてゐる所は尠く、又、親しい人でなくては何もならないので実は御地に白羽の矢を立てた次第です 石塚君にも手紙書きました 就ては石塚君とも相談下さつて適当な家を急に探してくれませんか 独立した一軒の家なら申分ありませんが若し都合のよいのがなかつたら離れのやうなのを貸して頂いてもよく、又、それが急に見つからなければ見つかる迄旅館住ひをさせてもよろしくともかく急におさがし下さい 小生は一人こちらに踏みとどまりますが一月に一回や二回はまゐつて、仕事にも精を出したいと思ひます 今月中に、月末迄になるべく疎開出来るやうにしたくどうかまことに御迷惑なからよろしくたのみます 貴君や石塚君がゐれば大船に乗つたやうで、安心してゆけると妻もよろこんでゐます 荷物は殆んど持つてゆうけないのでないかと思ひますがとにかく寝られて飯を食へたらよいといふのを原則として送るつもりです 令子さんとも御相談下さつて何分の御返事を願ひます 右よろしく 草々

三月十四日   前川佐美雄

杉原一司君

=====手紙の引用おわり=====

 

ここにある通り、昨夕の手紙に、もしかしたら疎開をお願いするかもしれないと書いたその直後に疎開を決めて、お願いしています。佐美雄の言葉にある「方々に友人もゐますけれど比較的安全なところで友人の二人、三人とかたまつてゐる所は尠く、又、親しい人でなくては何もならないので実は御地に白羽の矢を立てた次第です」というのは実に本心でしょう。ただ同時に、とはいえ、佐美雄ほどの人であれば、他にも家族の疎開をお願いできる人がいたのではないか、とか、もっと他にも鳥取・杉原一司を選んだ理由があったのではないかとも思いたくなります。ただ、いずれにしてもこのような緊急事態で家族の命をお願いする相手というのは絶対に信頼している人でなければならないことは間違いないでしょう。佐美雄は一司を絶対的に信頼できると思っていたことは揺るがないでしょう。

ところで、手紙の中に出てくる「石塚君」とは石塚敏夫のことです。当時、一司と石塚敏夫は安部国民学校に勤務している同僚でした。もともとは、「日本歌人」の同人であった石塚が一司に「日本歌人」や佐美雄を紹介したと言われています。また、この安部小学校の同僚であったのが後に「令子さん」として登場する一司の妻・杉原令子さんです。

佐美雄は疎開を急ぎに急いでいるので、更に翌日14日もまた手紙を送っています。

 

=====手紙の引用はじめ=====

拝啓 前便にてお願ひしせし疎開の件はあまり急なのでそぞ驚かれ事と思ひます 然し十三日の大阪空襲によつて、小生の考へはいよいよ本決まりに決まり今は一刻も早く疎開させたく就いては住居の方を至急に見つけて下さい 母と妻と、子供二人と飯焚の女と五人になりまいた 持つてゆくものは色々持つてゆきたいと思いますが、それは持つてゆけぬかも分からず(鉄道が)衣類やフトンは持つてゆくとしても日常の炊事道具など十分には持つてゆけぬのではないかと思ひます ナベ、カマは持つてゆくとしても七輪までは持つてゆけずさういふのはそちらで借れるか又は買へるかお知らせ下さい 日々のさういふこまこましい生活の仕方についてお知らせ願へれば幸です 月末迄に是非まゐらせたく万々よろしくお願ひします それから御地への汽車は何々線の何々駅か、それもお知らせ下さい 石塚君とも御相談下さつて 大々至急に御返事下さい まことに勝手なお願ひですが何卒よろしく色々と厄介をおかけする事と思ひますがとにかく貴君と石塚君をたよつてゆくのですから半年ぐらゐはお世話になりたいと思ひます 御返事願ひます

三月十五日    前川佐美雄

杉原一司様

=====手紙の引用おわり=====

事態の切迫感というか、佐美雄の緊張感というか焦りというか、そういうものが具体物の記述によって一層なまなましく伝わってきます。

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