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優れた随筆で知られる白洲正子が、夫次郎と三人の子供と共に
南多摩郡鶴川村(現・町田市)に家を購入、都心から移り住んだのは昭和15年。
近づく戦禍を敏感に感じ取ってのこと、かもしれません。当時はまだ農村、
彼女は初めての自給自足的生活に嬉々として打ち込み、その様子は
『鶴川日記』に記されて残されており、亡くなるまで暮したその家は、現在、
「武相荘(ぶあいそう)」として、一般に公開されています。
我家から近いので、先月、友人を誘って訪れてみました。

大きなかやぶき屋根の母屋。奥にある正子の書斎だった日本間(撮影不許可)には
多くの書籍が、天井近くまである書棚に収められていました。歌集や歌書の類も。

正子は『鶴川日記』で、鶴川近辺(現在の町田市、相模原市、横浜市北部など)
には、大和(奈良県)に関係のある地名が多い点を指摘しています。

  町田市周辺には、大和、奈良、岡上、三輪、小野路・・・など大和と関係のある
  地名が多い。武蔵に国分寺が立てられた時、大和から移ってきた人々が、故郷を
  懐かしんで名付けたものに違いない。・・・香具山古墳からは、十九基の横穴が
  発見され、多くの副葬品もでているが、その一つに人物と、馬を彫った線描画が
  ある。・・一帯に、牧(古代の牧場)が存在したことを語っており、・・・
  そのあたりを通るたび、遠くかすかに防人(さきもり)の妻の悲しい歌声が
  ひびいて来る。

と綴り、万葉集から次の歌を引いています。

 赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆかやらむ
        『万葉集』巻二十 4417  

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