短歌時評

新しい批評の場「短歌のピーナツ」 / 花山 周子 

2016年11月号

 今、私が何より楽しみにしている読み物がある。「短歌のピーナツ」。インターネットの書評形式のブログで、堂園昌彦、永井祐、土岐友浩の三名によりほぼ毎週更新されている。このブログでまず特筆すべきは「個人歌集以外の主に散文を対象とする」というシンプルにして盲点を突いた企画力であろう。今までも誌面の書評欄等で歌書は扱われてきた。しかし歌集紹介と同じ字数では自ずと限界がある。その点、ブログでは字数制限がないから、原文を思う存分引用でき、丁寧な批評が可能になっている。
 私は七月号で評伝への文学的な評価の必要性を書いたが、ここでは評伝も当然俎上に上がる。今年の四月に始まり取り上げた本は既に二十冊を超える。対象になる本は特に新刊というわけではなく、第六回ではなんと正岡子規『仰臥漫録』(土岐)が取り上げられた。以降をちょっと紹介してみると、山田航編著『桜前線開架宣言』(七回:土岐)、大辻隆弘『アララギの脊梁』(八回:堂園)、塚本邦雄『新古今集新論』(九回:永井)という具合でその時代や内容の幅の広さに驚かされる。
 また、書かれる筆致はいずれもラフで短歌史的な背景なども折に触れて押さえられ、とても読みやすい。書き手それぞれアプローチの仕方に個性があり、回を重ねるごとに連載としての面白味が増していく。たとえば堂園は、基本的に本の内容や文脈を忠実に追いながら、その意義や魅力を熱心に伝えるというスタンスを取っているのだが、何回か読むうち堂園自身の関心やコンセプトも並走するように浮かび上がってくるのだ。第十五回で来嶋靖生『大正歌壇史私稿』を取り上げた際の末尾で堂園は、「私はこの本を読んで思ったのは、大正時代も歌人たちはけっこう互いに交流しまくっているし、互いに影響受けまくっているなあ、ということだ。(略)なんというか、もうちょっと動きのある生きた人間として、近代歌人たちをとらえたいと思うのが、このブログの私の目的のひとつでもある」ともらしている。
 また、この連載のもう一つの醍醐味は三人の書くことが次第に有機的に交わってゆくことだ。一人が書いたことがあとからまるで伏線のように機能しはじめ、全体としての論が深まってゆく。たとえば永井は第五回で三枝昻之『前川佐美雄』を取り上げ、本に添って昭和初期の自由律を整理しつつ、「前回(筆者注:大井学『浜田到 歌と詩の生涯』(堂園:第四回))、塚本邦雄による浜田到の破調への批判の話がありましたが、塚本さんという人はこのころの先輩たちのイタい顛末とかが骨の髄まで沁みている人だと思うので、批判の裏には当然このころの記憶もあるだろうなと思います」と繫げている。三人の評が回を重ねるごとに立体的になり、いつの間にか「短歌のピーナツ」それ自体が論として、読み物としての分厚さを獲得しつつある。こういう読書体験ははじめてだ。
 「短歌のピーナツ」は単なる書評の場ではない。書評という形式を通して短歌という文藝そのものにアプローチしている。堂園は以前、「早稲田短歌」44号のインタビューで、
  …短歌の世界はいろんなところが本当に無意識で固まっていて(略)そうじゃない
 ことを、オルタナティブな存在を作るみたいな意識は何となく持ってしまいます
 ね。
と発言していて、「短歌のピーナツ」はこうした既成の価値観なりとは別の場を創出しようとする能動的な意識から生まれたのだ。
 固定化した枠組みに革新をもたらすものもまた常に平明でシンプルなかたちを取る。子規の短歌革新がこの連載で度々考察されていることも偶然ではないだろう。

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