短歌時評

歌ひつつゆく自転車は / 小林 真代

2024年1月号

 「短歌」二〇二三年一一月号で第六十九回角川短歌賞が発表になった。受賞作は渡邊新月の「楚樹」。読み応えがあり選考座談会も引き締まった内容だったが、今回は別のお話を。受賞作のほか、次席、候補作も掲載されているが全体的に句跨りや字余りが多く、句跨りについては選考座談会でも話題になった。その際取り上げられた次席の福山ろか「眼鏡のふち」から二首の句跨りを見てみる。
  はめ殺しの正方形の窓枠に置いているBOSEのスピーカー
  鞄から出したニベアをすくう指先 晴れてきた空が大きい

 一首目の句跨りについては許容するという声が強かった。「BOSE」の語感が四句五句をなにげなく繋ぐ。二首目は三句と四句の間が「すくう指/先」と大胆な句跨りで、これは厳しいという意見が出る。句跨りの多い連作のなかで読むと私はどちらもとくに気にならなかったが、皆さんはどう感じるだろう。
 ほかの選考委員からは句跨りを許容する発言もあるなかで、短歌の韻律が好きと明言する松平盟子は次のように言う。
  若い世代の句跨りへの抵抗感のなさや意識の薄さは、何かの必然によってもたら
  された趨勢なのでしょうか。それとも無自覚がもたらした流行なのでしょうか。
  それは今後どのような方向へ短歌を導いていくんでしょうか。韻律の磁場が希薄
  になることで見出される新たな詩のありようを、どう受け止めていくことになる
  のか。

 真剣な問いかけが胸に響く。私は句跨りへの抵抗感があまりなくて、しかも韻律が好きだ。どちらも手放したくない私はどこへ向かっているのか。韻律も句跨りもその他もろもろひっくるめて短歌は人のすることだから、この先も全部ひっくるめて進んでゆくだろう。結論は急がず、いっしょに進んでゆきたい。
 ここからまた別のお話。
 「うた新聞」二〇二三年一〇月号の大辻隆弘「〈てにをは〉を読む」で、大辻は長年愛読してきた佐藤佐太郎の歌と自分のある歌とがそっくりであることに気付いたと書く。
  連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音
                           佐藤佐太郎『帰潮』
  歌ひつつゆく自転車は踏切の弾みを越えて遠ざかる声
                           大辻隆弘『汀暮抄』

 助詞や助動詞に深い関心があるという大辻は、これらの歌に共通して使われている助詞「は」に注目する。一首目、連結していた貨車そのものを意識していたのが、連結の音へ意識が動き、そのため「貨車は」の「は」が繋がるところをなくしてしまう。大辻はこれを「浮遊する『は』」と呼ぶ。この浮遊する「は」を、大辻は自分の歌にも発見する。移動する自転車に向いていた意識が、自転車の人の歌う声、つまり「遠ざかる声」のほうへ傾く。その結果、「自転車は」の「は」は浮遊する。
 ひとつの助詞でこんなふうに意識の流れを表現できるのだから短歌は面白い。そしてこの二首の「は」はそっくりだが、もちろん真似しようとしてそうなったわけではない。
   私は佐太郎の歌を長年愛読してきた。彼の「てにをは」に注目しながら歌を読
  み続けていた。多分そのなかで「浮遊する『は』」に代表されるような、意識の
  流れを意識の流れのままに見つめる佐太郎の世界認識の枠組に出会ったのだろ
  う。

 こういう時間をかけた歌の読み方、歌との関わり方を私もしてみたいと思う。
 続々と新しい歌や歌の試みが生まれるから、それらと取っ組み合うだけでも日々はとにかく忙しい。それはもちろん必要で大事なことだけれど、一方で時間をかけて深まってゆくこともある。私は私の疑問やこだわり、好きな一首を大事に携えて、歌うたのしさ、読むよろこびを急がず求めてゆきたい。

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