短歌時評

魔法は歌人を殺すか(後) / 浅野 大輝

2022年11月号

 一定数の短歌を入力することで、その作者らしく見える高品質な短歌を生成するAIが誰でも簡単に利用できるようになったら、一定数以上の作品を発表するという行為は〈歌人〉という存在に対して大きな疑念を投げかけ、その存在の首を締めるものとなる――そういわれて馬鹿らしい話だと思うだろうか。
  大跨に緣側を歩けば、板軋む。
  かへりけるかな――
   道廣くなりき。

 高橋光輝は「機械学習で石川啄木の未完の短歌を完成させる」などで、石川啄木の「大跨に緣側を歩けば、」という「未完の短歌」の完成形を検討する取り組みを行った。先の引用歌は、高橋の検討により生成された石川啄木の「未完の短歌」の完成予想の一つである。ここで高橋は学習データとして石川啄木の作品七四五首を利用し、機械学習の手法を駆使して短歌を生成している。七四五首というのは機械学習での利用としては極めて少ないデータ数だが、そうした制限の下でも短歌として成立する出力を得ることができている。
 また朝日新聞社メディア研究開発センターでは、俵万智の歌集六冊分の作品をもとに俵万智の作風で短歌を生成するAIを作成した。作成に携わった浦川通は、自身も第六十四回短歌研究新人賞に「該当部分を明記した上で、一部AI生成によって得られた歌を収録した」短歌連作を提出し、最終選考を通過したことを明かしている(「AIが俵万智さんの歌集を学習したら:開発者が言語モデルを解説」)。
 文学的な審美眼に堪えうるかという課題の残る一方で、現在でさえ歌集数冊分の作品をもとにその作者の作風に近い短歌を出力することが可能であり、そうした技術は広く利用可能な段階にきている。また実際に、新人賞という審査の場に既に人間の作品と混ざってAIを利用した作品が登場しているのである。
 AIのある世界では、作品に作者の名前が併記されているからといって、その作者が現在的な意味合いでその作品を詠んだ、、、のかはわからなくなる。先の事例で浦川は自身の作中でのAIの利用を明記したが、そうした配慮も作者の良識次第であり、疑念は消えない。
 この疑念はすべての〈歌人〉にも降りかかる。作品数が多ければ多いほど、作者を含む誰もが新作、、を生成できるということを踏まえれば――その疑念は特に、「歌集を出版している」というような既存の〈歌人〉の活動実績の価値を逆転させるかもしれないのである。
 近年では座談会「人工知能は短歌を詠むか」(角川「短歌年鑑」平成三十年版)や、それに対して書かれた斎藤寛「AIと短歌をめぐって」(角川「短歌」二〇一八年九月号)などが短歌とAIの関わり方についての文献として思い起こされる。ただ、そこでの主な論点は「AIに何ができるのか」「AIが生成した文字列にどこまで文学的な意味があるか」という点だったきらいがある。座談会でもAIが短歌を詠めることは一定の同意を得られていたが――現状を鑑みるなら、AIが短歌を詠めるかという問いは既に「詠める」と答えが出せる。現在はもはやAIが短歌を詠む世界が実現しつつあるのを前提に、「AIのある世界でどんなことが起こるのか/どう動くべきなのか」という問いを考えるフェーズにあるだろう。
 〈歌人〉自身、、が作品を詠んでいる、、、、、はずだという暗黙の期待が無効化され、作品発表という活動の意味が変わり、これまで〈歌人〉として扱われてきた人々への疑念が広まる――これは随分意地悪な予想だが、今後の技術発展を思えば、〈歌人〉という存在や〈詠む〉という行為の意味が変容するのは確実だろう。〈歌人〉は死ぬか、もしくは役割における作品制作の範囲を縮小させて作品の読解の範囲に存在意義を見出すようになるかもしれない。
 〈魔法〉が〈歌人〉を殺す――そんな事態は、想像以上に近い未来にあるのである。

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