短歌時評

ぼうけんのつづき / 小林 真代

2024年4月号

 二月十日、濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』批評会が東京で行われた。パネリストは荻原裕幸、内山晶太、田口綾子、浅野大輝(兼司会)。それぞれの視点から歌集を語り合った。
 批評会では「誠実」という言葉が繰り返し聞かれた。最初に田口綾子があげたこの言葉は、歌から読み取れる生き方や人柄を表す語として語られたり、表現することへの向き合い方を指して語られたりした。まっとうに生きているのに社会とうまく折り合えない苦しさがこの歌集ではしばしば詠われるが、それに深く共感する読み手であれば、誠実さに寄り添わずにいられないだろうと思った。
  茫然の流しにむかひ梅干しの種のみ残る弁当あらふ
 真面目そうな暮らしぶりがうかがえる歌だ。茫然だってなんだってやるべきことをやるわけだが、それにしても「茫然の流し」という始まり方が目を引く。これを内山晶太が丁寧に読んでいて面白かった。初句は「茫然と」としてもよさそうなところを、「茫然の」としたことで流しやその周りの空間を茫然とした状態に巻き込み、不思議な空気感を生む。また「弁当」は、正確には「弁当箱」だが、正確性の足りなさが或る感触となっているという指摘もされた。正確性の足りなさが生活の場面でのリアルな雰囲気や感情を表現し、そのうえで歌意を十分に伝えている。こうした少しの工夫で歌がふくらむ。
 荻原裕幸の「リアリズムにもメタファーにもアレゴリーにも偏向しない文体」という指摘にもとても興味を持った。
  君の死後を見事に生きて最近のコンビニはおにぎりが小さい
 自身の思いを強い言葉で述べる上句に対し、下句は現実をゆるく言う。たとえばそのようなバランスの取り方を一首としても歌集としてもしているのではないか。そう考えると、先に引いた弁当の歌のように生活の場面を描く歌から、抽象的で解釈の難しい連作まで、いろいろな歌が収まっているのもこの歌集の特徴だなあと思う。たとえばこの歌。
  指づかひ こころがこゑになるときのほんのわづかな息のためらひ
 繊細な感じや流れの良さに魅かれる。そして「指づかひ」がいいなと思う。いいなと思うが、初読ではどう読むか迷った。また「こゑ」は歌集の中によく出てくる言葉なのだが、そこに託されたものを私は掴みきれずにいる。
 「指づかひ」について、濱松はあとがきに「言葉とは無数の指づかいを持ったとてつもない楽器」と書いている。言葉で表現することを楽器を演奏することになぞらえているのだが、そうするとこの歌は、表現することへのためらい、怖れを言っているのだろうか。
 しかし、ためらっても怖れても、濱松の歌の幅の広さは確かに彼の奏でたものだ。言葉が楽器であるなら、歌集全体がひとつの楽曲、音楽として構成されているイメージも浮かぶ。音楽をモチーフにした連作もある。そうして様々に響きあう歌のなかで、パネリスト四人全員が引いたのが次の歌だった。
  ここに来てやうやく合つてきたやうな身体、わたしの終の住処よ
 言葉や音楽とともに足掻き続けて、或る日、「合つてきた」という感覚が来る。自分の人生を引き受ける自信が身体から湧いてくる。
 浅野大輝はこの歌集の構成を濱松の歌から言葉を借りて「ぼうけん」と言ったのだった。
  逃げるやうに図書館へ行く ぼうけんのつづきを書ける人になりたい
 どこか生きづらさを思わせる上句だが、ともかくも行動する力はあり、下句のなりたい自分のイメージはすこやかだ。どれだけ誠実であっても、人の間で生きていればうまくいかないことはある。それでも誠実に生きて、誠実に歌と向き合って、「ぼうけんのつづき」でまた歌の話をしたいと思う。

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