短歌時評

「大衆化社会」と〈顔〉 / 浅野 大輝

2023年4月号

  (…)短歌界に市場経済がさらに深く浸透したと実感させたのは、木下龍也とい
  うキャラクターが現れたことだ。(…)
   恵まれた容姿と多少(失礼だが)の短歌技術を武器に、有名になりたい、金を
  稼ぎたいという率直な欲望を動力として、数年間にわたる弛まぬ諸種の努力とア
  イデアを積み重ねた、本格的エンタメ系短歌の出現だ。(…)
         阿木津英「大衆化社会/フェミニズム批評/芸術としての短歌」
 角川「短歌年鑑」令和五年版より。木下龍也について述べた阿木津の文章は、端的に嫌な響きである。現代において、容姿といった特にセンシティブな作者の属性に関する事項と、作品に関する事項とを重ね合わせた評価は注意深く行う必要がある。阿木津の今回の文章に、その注意はあるといえるのか。
 阿木津のいう「大衆化社会」においては「エンタメ系の尺度は、名前が売れるかどうか、商品(短歌)が売れて金が稼げるかどうか」であるから、目的に合致するならセンシティブな内容でも価値に含める動きがあることは否定できない。しかし、批判するために書き手までが安易にその動きに乗っかって書く必要はない。むしろ批判の方法について注意を欠けば、悪戯に書き手や発信元の媒体に対する読み手の信頼を損ねるだけである。
 ――ただ一方で、この作者と作品の分離には、短歌というジャンルの受容のされ方から見ればそもそも難しさが伴うのではないか。
   『サラダ記念日』についての流れを整理するなかで不思議だったのは、どの資
  料を開いても俵万智の「顔」――写真や人物像が、つねにそこにあるような感覚
  を受けることだった。
                  浅野大輝「『俵万智』という『私』の形成」
 これは過去に時評子が俵万智『サラダ記念日』について資料を渉猟していたときの率直な感想である。俵万智や『サラダ記念日』についての特集は数多く存在するが、たとえば角川「短歌」誌面上では歌集出版年に近い一九八七年に四ページ、一九八九年に八ページが、〈俵万智〉というキャラクターの日常や休日に入り込んだかのようなグラビアに当てられている。また『サラダ記念日』に関する文章においても、「ぱっと見たとき、私は高校生かと思った」(佐佐木幸綱『サラダ記念日』跋)、「新しい歌をつくる人は、顔の角度でも新しいところをもっている」(荒川洋治「追えない顔」)など作者についての言及が多く目立つ。こうした取り上げ方に、〈俵万智〉の〈顔〉を強く感じたのであった。
 作品や活動が話題に上れば、自然と作者の〈顔〉――作品外の作者の情報を受け手が求めてしまうことはある。また〈顔〉とは、たとえ受け手にジャンルについての知識が少ない場合でも、何となく相手を理解したつもりになって言及してしまいやすい領域でもあるだろう。そして短歌とは、そんな〈顔〉を求めてしまいがちなジャンルではなかったか。
   短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一
  人だけの人の顔が見えるということです。(…)そういう一人の人物(…)を予
  想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。
                          岡井隆『現代短歌入門』
 作者のセンシティブな情報と〈顔〉とは必ずしも一致しないが、〈顔〉を求める動きが短歌という詩型にあることは、常々意識した方が良いだろう。そして〈顔〉が見え、また見たくなってしまうからこそ、その見方や語り方を強く考えねばならない。「大衆化社会」で短歌を続けるために求められる注意とは、詩型に対するわたしたちの不用意な特性を見つめるものであるべきではないだろうか。

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