短歌時評

心は身にもそはず成にき / 小林 真代 

2024年2月号

 短歌とAIについていろいろな文章が発表されている。いずれも緊張感のある文章が並ぶなかで、「歌壇」二〇二三年一二月号の「対談 第9回 うたを生きる、うたに生きる」の長谷川櫂と坂井修一の次の件は、私も読みながらいっしょに笑ってしまった。
  長谷川 AIと人間の違いについて欲望の話が出たけれども、もう一つ、ぼーっ
  とできるかどうかということね。
  坂井 あははは(笑)。
  長谷川 これが大切だと思っています。体験上、俳句なんてぼーっとして作るも
  のなのですよね。良い句はぼーっとした時空から現れる。強いAIになってもそ
  れはできないのではないか(笑)。
 強いAIとは、大雑把に言うと、今の時点でのツールとしてのAIとは異なり、自ら考え判断し行動するAIのこと。対談では、欲望も「ぼーっとする」能力も持つ強いAIが実現した場合の怖さ、危うさも語られている。
 芭蕉の句を例として「ぼーっとする」ことを語ったあと、長谷川は西行の『山家集』の歌を引いて次のように言う。
  長谷川 (…)例えば、花の歌だと〈吉野山梢の花を見し日より心は身にもそは
  ず成にき〉。「心は身にもそはず成にき」、心が体から出て行ってしまうという
  ぼーっとしている感じね。(…)
 坂井は「ぼーっとする」ことの大切さを、自身の言葉で次のように言う。
  坂井 (…)現在の多くのインテリジェンスとは知的な最適化だけれども、本当
  はそうではなくて、とんでもないことをする、俳句や短歌でもそのような能力が
  試されるのではないか。(…)
 AIを含め、いま目の前にある現実をつくったのが人間なら、そこからはみだしてゆくのもまた人間の力なのだろう。ぼーっとすることも人間の能力だと言われるとなんだか楽しい。こういった話が俳人と歌人の間で交わされることも面白く読んだ。いろいろな人とそれぞれの言葉で、AIだって短歌だって俳句だって、どんどん語られてよい。
 さて、いくらでもぼーっとして良い歌の現れるのを待ちたいところだが、生きているとぼーっとしてばかりもいられない。それどころか様々な事情で歌から離れてしまうこともある。二〇二三年の歌集から、一度は歌から遠ざかった二人の歌を読む。
  これの世にでてきたばかりのみどりごが深い淵からわたくしを見る
                       佐藤華保理『ハイヌウェレの手』
  母さんのらっきょが終わった味噌もない日々たべられてゆく母さん
 母親の病気と、自分自身の妊娠・出産の時期が重なる。自分が産んだばかりの子どもの背後にさえあの世の暗さを見ている一首目。日々の食事は生きていくうえで楽しみにもなるものだが、それが母を亡くした悲しみに結びついてしまう二首目。どちらの歌にも、隣り合わせの生と死がある。
  先のこと分からぬわれと今日のこと分からぬ母が桃を分け合ふ
                        祐德美惠子『左肩がしづかに』
  夕映えの遥かな声に呼びだされうつとりとゐるわれとくちなは
 祐德の歌集にも母親のことが大切に詠われている。一首目、今ここにいることだけをたしかなこととして向かい合う母と娘。お互いの存在が分かちがたく描かれる。二首目の「くちなは」は亡くなった母だろうか。この世の外から来るような声に心をあずけてやすらかなふたつの命がある。
 それぞれの歌集のあとがきには、仕事をはじめとした日々の忙しさ、そして母親の介護や死を通して再び短歌へ向かったことが記されている。詠いたいと思うこと、詠わずにはいられないこと、それも人間の力だろう。

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