ないがある② / 浅野 大輝
2023年5月号
歌わない鳥といっしょにいた日々を紙片のようにおしえてあげない
彼岸花わたしのここにも咲いていて此処が見えないとは言わせない
安田茜『結晶質』
『結晶質』をひらいてまず最初に感じたのは、否定の形で差し出される意思の強度だった。たとえば一首目は結句「おしえてあげない」が八音であり、読もうとすると歌の終わりにかけて力を入れて読み切らねばならないような韻律になっているが、そこで込めた力がそのまま「ない」にかかっていくという巧みさが魅力としてある。また二首目も同様に、韻律面では「ない」という否定が四句目・五句目の末尾で畳み掛けるように押韻されているという特徴があり、この畳み掛けによってラストの「言わせない」がとても強く響く。この二首はいずれも歌集冒頭付近に置かれた作品であるが、韻律的な操作と否定の形で示されるメッセージがマッチするという形の歌は歌集全体に見られ、それが安田作品の特色の一つとなっているように思われる。
かすみそうだけを飾っていた窓がかつてあったが今はもうない
ことばまでまだまだ遠いゆうぐれの小庭に忘れられたなわとび
その声に貨物列車がはしるのを私だったら見逃さなかった
いない犬を散歩につれてゆくことは不可能である春そして夏
歌集中、特に惹かれた歌を引用してみる。いずれも歌のなかに否定や何者かの不在があって、それらが手の届かないところまで離れてしまったものやあり得たかもしれない非現実を、むしろ強く読む者に想起させる。
〈先生〉と胸に呼ぶ時ただひとり思ふ人ゐて長く会はざる
菅原百合絵『たましひの薄衣』
『たましひの薄衣』も取り上げたいと感じた一冊。『結晶質』が実生活的なモチーフを中心にした歌集とすれば、こちらは逆にブッキッシュ、メタフィジカルな方向のモチーフを中心に美学を突き詰めた歌集といえる。そのなかでも時評子の目を引いたのは、やはり否定表現の含まれる作品だった。
をさな子に鶴の折り方示しをり あはれ飛べざるものばかり生む
歩みきて真昼の川に会ふ 水の流れにあらずきらめきの帯
菅原作品で特徴的なのは、否定表現の後に更なる力点がくるという部分だろう。「飛べざる」よりそれを「生む」ことが、そして「きらめきの帯」が、それぞれの歌の核となっているように時評子には思われる。
うしろから稿読めば夜は白みきて死から生へとさかのぼる舟
菅原作品の中でも特に秀逸と感じた一首。「うしろから」という逆転のなかで、「死」という不在も「生」という存在に遡上していくと指摘している歌であるが、ここには否定を踏み抜けてさらに肯定的な地平へ降りるという菅原作品の魅力の一側面が集約されているといってよいのではないだろうか。
「ない」という表現の面白さは、それが指し示そうとするもの自体は事実ではなく事態(可能性としてありうる事柄)のひとつであるのに、文章表現のレベルでみればまるで事実としてそうであるかのように振る舞う、という点にあるように思う。「ない」とは肯定的な事実を前提としたうえでの表現上の操作であって、それによって生成される文意は事実とは別の事柄を指す。一方、現実問題として「ない」という否定でしか言い表せない状況はあって、そのときわたしたちはそれを解釈しようもない事実であるかのように扱う。
否定が何か説得力ある非現実をわたしたちに見せるとしたら、この事実ではない事実性という部分に鍵があるのではないだろうか。