短歌時評

短歌甲子園二〇二二 / 浅野 大輝 

2022年9月号

 七月二十七日から二十九日の三日間、岩手県盛岡市で「第十七回全国高校生短歌大会(短歌甲子園二〇二二)」が開催された。二〇二〇年と二〇二一年の大会はCOVID-19の流行によりオンラインでの開催となったが、今年度は三年ぶりにオフラインでの開催が実現。感染対策を行った上で、全国から二十一校が参加してそれぞれの短歌を競い合った。
 本大会の特徴としては、石川啄木に倣った三行分かち書きをルールとして定めていることや、ディベートがなく審査員から選手に対する質疑応答の時間を設けていることなどが挙げられる。個人戦と団体戦があり、特に団体戦では先鋒・中堅・大将による三名一チームが互いに題を詠みこんだ短歌を披露し、五名の審査員の投票で各勝敗を決定する。
 時評子は審査員として三年ぶりに関わったが、今年も判定に悩む名勝負が多かった。
  級友に一時別れを告げる夏
  二人の交響
  自転車に揺れ    菅原輝空(題「響」)
  書初めの「禍」の字で止まる祖父の筆
  筋飛び出す手
  鍋の日と似る     高木唯花(題「禍」)
  光沢の矯正器具をつけたまま
  三才の弟と
  しりとり       林崎千藤(題「器」)

 菅原作品にはしばし会えなくなるクラスメイトとの交感の鮮やかさを、高木作品には「禍」という言葉に対する祖父の逡巡を「手」に見つつ家族の時間との類似を思う視線の細やかさを、林崎作品には「弟」と過ごす時間をデクレッシェンドするような三行分かち書きで描く巧みさを、それぞれ感じたい。実はこれらは特定の賞に選出された歌ではなく、団体戦での作品として提出され勝ったり負けたりした歌なのだが、このような名作が――決勝トーナメントに至っては三十分程度の即詠によって――次々と姿を現すのである。
 大会期間中に感じたのは、前回オフラインで開催した二〇一九年大会と比べて、生徒の作品があまり変容していないように見えたことだった。内省的な歌や家族との歌が増えるなど多少の傾向はあったが、全体として例年と同じく選手の多くが自身の生活を丁寧に見つめる作品を出していると思えた。
 一方、「例年と同じく」という見方がどこまで正しかったか、今は自身でも疑わしい。
 田中拓也は、「コロナ禍における生徒の短歌作品から浮かびあがるもの」(「日本現代詩歌研究」第十五号)にて、コロナ禍で児童・生徒に「見過ごしていたものを見つめる時間が生まれた」ことや、遠方の祖父母など会いにくい人々への想いが強まったことを推測する。またコロナ禍での児童・生徒の自殺の増加に触れ、作品の奥に「言葉にならない無数の『言葉』を想像すること」を求める。
 また小川和恵「コロナ禍の下の学校現場~塔の教師たちの歌から読み解く~」(「塔」二〇二一年七月号)では、コロナ禍の学校現場において教員までもが「一ヶ月後のことさえ見通せぬまま」「試行錯誤しながら毎日を送っている」ことが指摘されている。
 社会がこの感染症に心理的に慣れつつあるという状況の変化も影響しそうだが、年齢を問わずさまざまなケアや支えが必要であることは今後とも重要な視点だろう。そして言葉にならない言葉が、短歌の表現にどのように影響してくるのかは、継続的に注視したい。
    *
 今年の大会中、さまざまな場面で「会えてよかった」という言葉を耳にした。短歌そのものだけでなく、短歌で出会う多くの友人の存在が、いまこのわたしを支えていることを思う。勝ったとか、負けたとか、賞をとったとか、直接的な結果だけが重要なのでは決してない。戦いの後に残るものが、選手や誰かの支えになるものであればいいなと思う。

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