短歌時評

糊代は動かない / 浅野 大輝

2023年3月号

 「短歌研究」二〇二三年二月号、シリーズ企画「『現代短歌2・0』を探して」の第一弾にて、山田航は二〇二〇年代を「『脱モノローグ』傾向の地殻変動」の過渡期にあるとし、木下龍也『あなたのための短歌集』をこの時期の「象徴的な一冊」と位置付ける。
  『あなたのための短歌集』には、作者が無意識のうちにコンテクストから排除し
  てきた人々を自らのコンテクストへ入れ込むための格闘という側面があっただろ
  う。(…)他者の言葉を借りるのではない。他者の言葉に「潜る」のだ。
                     山田航「二〇三〇年の短歌のために」
 『あなたのための短歌集』は、木下が特定の依頼者からの依頼文に沿って制作した短歌作品の一部を書籍化したものである。山田は木下の手法を「あらかじめ他者性を内包した『文脈(コンテクスト)』を持ったうえで完成する構造になっており、『文脈』の摺り合わせによるダイアローグの成立をねらっている」方法とみる。そしてダイアローグ指向の評価軸を「現代の歌人のほとんどがまだ明確に持てていない」と指摘し、千種創一作品の読解なども交えて「『対話』(ダイアローグ)の表現を目的とする短歌の評価軸をどのように作ってゆくか」という課題提起をする。
 山田の考察には納得できる部分が多いものの、木下による『あなたのための短歌集』が「他者の言葉に『潜る』」「象徴的な一冊」であるという見解には若干の疑念が残る。
 まず「『脱モノローグ』傾向の地殻変動」については、実は古典を中心に行われてきたスタイルへのある種の〈揺り戻し〉なのかもしれない、という補助線が必要であろう。角川「短歌年鑑」令和五年版にて、大森静佳は「短歌の本質を自己表現だとする近代短歌以降の価値観から見ると木下の試みは異質に思えるが、古典和歌においてはむしろこうしたなりかわりや題詠はごくありふれたものだった」と指摘する(「『ために』と『向けて』」)。山田も「広義の題詠」と述べるが、文脈を提示しつつ短歌作品の出来を超えた射程を成立させる試み自体は新規でも象徴的でもない。象徴的というのは、こうした手法が再燃しているという事象にのみ言えることである。
 そのうえで、この手法は本当に「他者の言葉に『潜る』」と言えるものなのか。
  一晩できみの一生分の火を捧げてしまうおろかさも恋
 引用歌は山田が例示した木下作品である。実際にはこの一首に依頼文が添えられるのであるが、その文章から感じられるのは特定の他者の姿というよりも、自己の姿に置き換え可能な一般化された物語である。そして木下作品が語りかける相手は「きみ」というやはり抽象化されたイメージであり、与えられた文脈は現代短歌的なコードに基づく表現に変換される。このとき文脈と短歌・歌人のあいだに摺り合わせはあるだろうが、そこで扱われているのはどれも抽象的な事柄、安全で自分のわかる領域に収まるようにサニタイズされた言葉であるように思われる。このとき、現れるのは具体的な顔のない、「他者」以外の何かでしかないのではないだろうか。
 〈糊代〉――二つの集合間の積集合のイメージ――となる部分は生じているのだが、それは双方が元から持つ範囲においてであって、そのような〈糊代〉にしか作品や制作過程が到達しない。個人情報は掲載できないなど出版上の事情はあろうが、一般読者としては木下作品やそれを「他者の言葉に『潜る』」とする山田の見解を読むとき、そこにある手法は「他者」に触れているようで触れていない、「対話」ではないものに見えてならない。
 現代の作品制作において(も)、「他者」「対話」は重要なキーワードであると思う。第一弾以降、誌面でどのような議論が展開されていくのか、引き続き注視していきたい。

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