短歌時評

つくりかたをつくりなおす / 浅野 大輝

2023年12月号

 「短歌研究」二〇二三年十月号にて、第四十一回現代短歌評論賞の発表が行われた。課題は「〈現代短歌の当面する問題〉に関し論題自由」。受賞作は中島裕介「〈前衛〉と実作――生成AI時代に、人が短歌をつくること」となった。
   「生成AIがいずれ優れた短歌を作れるようになるかもしれない」が、「実作
  経験がよりよい鑑賞を促すことがわかった」現在、われわれは短歌において何を
  なすべきか。――私は改めて〈前衛〉を提案する。既存の短歌を学び、よりよく
  鑑賞したうえで、既存の短歌にはなかったこと、かつChatGPTにはできないこと
  を創造する〈前衛〉を、私自身をふくむ人に求める。
     中島裕介 「〈前衛〉と実作――生成AI時代に、人が短歌をつくること」
 中島の評論より、論旨が端的にまとめられている箇所を引いた。時評子としては、中島が文末を「私自身をふくむ人に求める、、、」と言い切っていることの重要性を見出したい。生成AIによる作品制作の可能性が広がっている現在、「既存の短歌にはなかったこと、かつChatGPTにはできないことを創造する〈前衛〉」とは、作品制作を行う人間にとっては最早逃れがたい喫緊の課題となっている。「提案する」といったんは述べつつも、それをすぐさま「求める」という要請として言い換えねばならなかったところに中島の強い課題認識があると思われるし、その課題はまさに現代という時代に要請されるものとして、誰しも考えねばならないものと言えよう。
 本時評においても、この二年間のうちに複数回AIと短歌の関わりについて触れた。それは時評子の興味がそのような技術的な方面に向いていたことも影響しているが、同時にAIが短歌あるいはもっと広く芸術・生活といった各方面で無視できない存在となるほどの発展を見せたということでもあった。AIについての議論の中で、詩歌や芸術といった分野は長く人間が得意な分野として信じられてきたが、MidjourneyやStable Diffusionによる画像生成、ChatGPTによる自然な会話の実現といった事例が集まるにつれて、そうした特定の分野でのAIに対する人間の優位性は無条件には信じられないものとなった。人間が担うべきことは何なのか、という問いが様々な分野で発されているし、短歌に関わる人間も同様にその問いと無関係ではいられなくなったのである。
 中島の論は、戦後の前衛短歌(=「二十世紀の前衛短歌」)の特徴や試行――篠弘が『現代短歌史Ⅱ』で論じた、方法上の変革、「私」の拡大、主題制作の試行、現代にみる主題の展開など――を参照した上で課題を見出し、実作につなげるという「〈二十一世紀の前衛短歌〉の試行」が「AIとの共創」の実現された未来のために必要になると続く。注意すべきは、「二十一世紀の前衛短歌」が「二十世紀の前衛短歌」そのままであるわけではない、という点だろう。「二十世紀の前衛短歌」を参照しながらも、その課題や試行を汲み取り、批判・検討を重ね、二十一世紀のわたしたちの実践として捉えていくことでしか、「AIとの共創」のある未来は達成されない。先人たちの試行にヒントをもらいながら、あくまでも現代に生きるほかないわたしたちの手で、現代に即した実践をつくりあげていくことこそが、真に求められている。
    *
 個人的な話をすると、二〇一八年頃から短歌に飽きていた。正確にいえば、その頃までの自分の短歌のつくりかたに限界が見えて、そこから波及する形で、それまで自分の短歌のつくりかたの発想を延長して捉えてきた他の作者の先行作品に対しても、以前ほどの感動をもって対峙する事ができなくなっていた。
 その頃まで考えていたことはこうだ――現代、文字情報として伝達される短歌を読み取る際に読者がアクセスできるのは、あくまでもその短歌に書かれた情報や、作品の外に公開されている情報である。作者自身の体験や感情というものは、読者にとってはアクセスできないがために、短歌を読み取る際の読者の解釈に寄与しない。ならば作者としての作品制作の際、作者としての体験や、作者自身の〈人生〉は不要ではないか? 作者としてなすことは、あくまでも読者と同じ視点からアクセス可能な情報のみを解釈の拠り所として、言語的な操作のみ、、から言葉の配列をつくりだし、そこに見える表現の新奇性や体験らしさ、、、といったものから作品としての魅力あるものを取り出すことである。それによって作者が特権的にしかアクセスできない情報を減らし、より読者の視点に則して解釈や魅力の伝達が容易な作品を制作することができるはずである。
 このつくりかたのメリットは、作者自身や作者自身の体験や〈人生〉に一切の表現上の、、、、価値を認めなくても良いことである。自身が体験したことから短歌をつくるということは、実人生のなかで得られる体験に価値を認めるということであるが、それはともすれば制作された作品について「体験しているからこそ良い」というような嫌な経験至上主義を認める回路を許容しかねない。それぞれの人の体験や〈人生〉には否定できない価値が備わっているが、それは比べられるようなものでもなければ、ましてどの短歌や作品が良いかを評価するために使役するようなものでもない。そもそも自身の制作態度から体験を抜き去ってしまえば、そのような嫌な経験至上主義は前提として否定することが可能になる。また作者としての特権的な体験の情報を否定していることで、確かに読者の視点に近い位置からの制作が可能になるという副次的な効果もあった。
 一方でこのつくりかたのデメリットは、新奇性や魅力ある作品をつくりだそうとするとき、利用可能な資源が、すでに自身が有している言語空間にあるものとそれに対する操作のみに限定される、という点にある。自身の言語空間で意識して利用可能な資源は当然限りがあるし、それに対する操作も限りはあるので、結局のところ現実的に生成可能な言語表現は高々有限個である。まして自然言語の運用には癖も偏りもあるので、実際につくりだせる表現はさらに減少する。それでも新奇性のある表現をつくりつづけようとするなら、基本的には自身の外部の言語的資源を取り入れて自身の言語空間を広げようとする必要に駆られるわけであるが、現実としてそのような行為も無尽蔵にできるわけではない。結果として、この方法で生成可能な新奇性のある作品数はいつか頭打ちになるほかない。
 ――そんな短歌のつくりかたをそれなりの期間運用してきたが、いつしかデメリットの方が強くなり、結果飽きた、、、のだった。
  短歌は形式の短小に応じて、手先の器用な操作によって一首をまとめることも出
 来るし、借物ですべてを装うことも出来る。しかし、(…)それが自身のために何
 程の事があるだろう。一首を作ることによって自身の体験が深められるのでなけれ
 ば意義がないではないか。
  (…)第二義的な操作はいつか自身の不満を招き、ひいて短歌というものがつま
 らなく思われるようになるのである。自身の態度を省ることなく罪を短歌の形式に
 負わしめて短歌から去る人の多いのを私は惜しまずに居れない。(…)態度さえ確
 立していれば作歌を継続出来たのである。人は正しい針路に立つなら必ず進歩する
 ものであろう。(…)正しい態度、正しい針路とは何か。それは短歌を体験からの
 み作るという事である。
                          佐藤佐太郎『純粋短歌論』
 佐藤佐太郎『純粋短歌論』は八月号「体験を深める/人生で戦わない」でも引用したが、もう少し引用範囲を広げて再度引く。短歌に飽きた、といっている人間を真正面から叱る文章で初読のときには思わず苦笑してしまったのだが、自身の状態を的確に指摘されるような文章で、折に触れて読み返していた。
 短歌を体験に基づいてつくるということは、短歌をつくるときに自身が感じとっている/感じとってきた現実に基づいて言語空間から生み出す言葉の配列に一定の制約を課すことである。これは一見制作時の条件を厳しくするだけのようにも思われるが、一方で自身の言語空間では生み出しにくい言葉の配列を着想するための指針を、いま自身が生きている現実世界に対する認知から恒常的に取り入れることを可能にする。もちろん得られる体験には限りがあり、先述した嫌な経験至上主義に陥るデメリットもあるため、「体験からのみ作る」という佐藤の態度は極端と感じられもする。しかし、現実世界という自身の未だ感知の及んでいないもの――〈他者〉が存在しうる空間に自身を投じることで、どうしても限定されてしまう自身の言語空間を超えた作品制作を行うことが可能となる。
 体験から短歌をつくるという方針の有効性を考え始めると、同時にその方針に対する疑問も湧いてくる。〈他者〉が存在する現実世界の体験に基づいて作品制作を行うことは可能であるが、しかしそれがそのまま自身の作品に〈他者〉を引き入れるような回路となるわけではない。現実と作品の間には、どうしても自身の言語空間が横たわる。自身の言語空間を通りながら、なお自身にとって〈他者〉として驚きをもたらし続けるような表現は可能なのだろうか?
 二年間の時評の背後にあったのはそのような個人的な動機からくる疑問だったし、それに対する自分なりの考えの一端が昨年十二月号「〈わからなさ〉のままに〈わかる〉ということ」や個々の時評で述べたことだった。そして今年についていえば、昨年十二月号で述べた「リズム・語・事実という三つを、〈わからなさ〉のなかにありながらも〈わかる〉というしかたを短歌にもたらすもの」として扱う発想を引き継いで、特に「事実」あるいは「事実性」といったこと――これらは「体験」や〈人生〉の表現と非常に近しい意味を持つ――について多く考えていたのだった。
 作者としての「体験」や「事実」といったことを、作品における「事実性」の表現と共に語るのは、実は難しいことである。
  出来事や事象そのものと、言葉によって表現されたそれ、、とは、当たり前だが別物
 である。別物だからこそ呼応は成立する。呼応とは言うなれば《~を通じて》のあ
 らわれである。(…)事実、、という再現不可能なものを、作品という表現されたそれ、、
 《を通じて》認識する際に、私たちはともすれば事実、、それ自体を「忘却」し、認識
 の上書きに身を委ねてしまう。(…)
  この時、事実、、の「忘却」と引き換えに充填された(註:浅野大輝「ないがある
 ②」で言及された)「まるで事実としてそうであるかのように振る舞う」事実性こ
 そが、「実感」の源泉ではないだろうか。ある表現を動かしがたい真に迫ったもの
 と感じるのは、それが現実に由来するか否かに関わらず、そこに生じる呼応の強さ
 によるものではないか。
                          濱松哲朗「呼応の現場へ」
 「短歌研究」二〇二三年九月号より引いた。何らかの事象をそのまま言語表現に落とし込むことはできない。言語表現に落とし込まれたそれは、事象をもとにしたとしても別の存在である。言語表現では何かを描き出そうとするとき、全く同時に他のものをも描き出すということはできないがゆえに、描かれるものと描かれないものを必然的に生み出す。濱松の指摘は、その差異によって認識の上書き――「忘却」の力が働くことを注視する重要な視点と言える。
 言語表現において事実そのものが再現不可能であることから言えば、言語表現で成立しうるのはあくまでも「事実性」の表現である。しかし、六月号「異界的なリアリティ」などで見た通り、「事実ではない事実性」もまた表現としての説得力を持ちうるのであった。それがつまりは濱松の指摘するような「忘却」や「呼応」による作用に駆動されながら、「実感」として受け取られうる表現があるということであるのだが、一方で「事実性」が言語表現上の正しい判断の表出と捉えられてきたこともまた事実である。
  (…)われわれは自分の概念体系に基づいて状況を理解しているからこそ、その
 概念体系を利用して述べられていることを真実として理解することができるのであ
 る。(…)
              G・レイコフ、M・ジョンソン『レトリックと人生』
 G・レイコフとM・ジョンソンがいうところの「真実」は、本時評での「事実」という語と近い使われ方をされていることに注意したい。ここで言語表現上の「真実」とは「状況の理解」によってこそ成立するようなものである。曰く、「陳述が真実であるか否かは、陳述の中で用いられているカテゴリーがふさわしいものであるか否かによって決まる。そして、ふさわしいか否かは人間の目的や、状況コンテクストの他の側面によって変る」。言語表現における「真実」とは、言語の運用とわたしたちの認識の間に何らかの妥当な関係を切り結ぶことが可能であるということを示し、またそれ以上ではない。
 言語表現に現れるのは事実ではなく事実性の表現である。体験を通じて短歌をつくることを考えたとき、現実世界においては生きた〈他者〉と言えた存在や体験そのものが、言語表現にフィットするような形でつくりなおされる、、、、、、、、ということは決して無視できないだろう。一方で、その表現が認識として妥当な事実性の表現としてあるときには、それは短歌的な解釈の前提としての判断という形で、〈他者〉的なものを作品に引き込みうるのかもしれない。
    *
 先述した時評子の個人的な短歌のつくりかたに近しい考えの方もいるのではないかと思うが、これはある意味でAIと/AIで作品制作を行なっているのと似ている。つまりある言葉の配列を出力する者と、それを評価する者とを分業しているつくりかたなのであるが、そこにおいて体験といったものを表現に引き込む過程には、見てきた通り乗り越えなければならない検討があると言える。
 冒頭で引用した中島のいうところの「AIとの共創」の実現は、短歌の作品制作においても重要な目標となろうが、そこに至るためには、体験から短歌をつくる、ということの意味をとらえ直さねばならないだろう。それはわたしたちの短歌のつくりかたに少なからぬ変化を求めている。そして、つくりかたが変わるとき、体験――ひいては生き方とそれについての認識もまた変わるということを、それぞれが重みを持って考えなければならない。そのような瞬間はもうわたしたちの手元にまで来ている。

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