短歌時評

〈わからなさ〉のままに〈わかる〉ということ / 浅野 大輝

2022年月号月号

 絵画の分野でのAIの発展が著しい。本誌十月号・十一月号の時評では「魔法は歌人を殺すか」と題して文学におけるAIの可能性と、それが短歌にもたらす影響について述べたが、これらの時評の執筆から公開までの数ヶ月の間にも絵画の領域でのAIの発達は止まることがなく、むしろオープンソースや論文などの形でそのモデルや実装が公開される流れと相まって加速し続けている。
 こうしたAIでの画像生成の発展により、興味深い新領域の探究も始まっている。Prompt Engineeringという活動である。“prompt”とは「役者にセリフを思い出させる助け舟としての言葉」や「コンピュータへの命令を促す短い記号」という意味の英単語であるが、ここでは画像を生成するためにAIに入力する文章のことを指す。つまり、人間の意図に沿った画像を生成するためにAIにどのような指令を与えるべきかを探る活動が広がっているのである。
 Prompt Engineeringという探究は、画像からprompt候補の文字列を導き出すサービスや、promptのテクニックをまとめた「元素法典」という〈魔導書〉の登場など、さまざまな形に発展を続けている。〈魔導書〉とあるが、まさにpromptとは自分の言葉からイメージを生成するための、現代における〈呪文〉なのである。
 機械学習やAIの利用を考えるうえでは、しばしばその解釈可能性や説明可能性といった性質が取り沙汰される。大雑把にいえば、解釈可能性とはあるAIが内部の仕組みによってなぜ/どのように結果を導き出したのかを人間が解釈可能である性質、説明可能性とはあるAIについて内部の仕組みやその動作までは完全には理解できずとも入力と出力から人間が結果を説明可能である性質である。AIの導き出す答えとそのAIの解釈可能性はトレードオフの関係にあり、解釈可能であるほどAIとして性能は出しにくく人間からみても気がつきやすい洞察に留まり、逆に性能や人間的には思いもよらない洞察を得られるようなモデルは解釈が難しい傾向にある。社会でAIを活用するうえではAIの出した答えに対する利用者からの納得や合理的判断の余地があることが重要な場面が存在するため、AI利用のガイドラインや規則でも考慮がなされている。
 先に見た絵画など芸術分野についていえば、解釈可能性/説明可能性が強く求められることは少ない。Prompt Engineeringのような活動はAIの動作について人間が完全には把握しきれないがゆえに起こるものであり、むしろこうした〈わからなさ〉を残していることこそが芸術や文化としての可能性を担保しているともいえる。
 その〈呪文〉について〈わからなさ〉を感じながら、少しでも自分が望む――あるいは予期していない――イメージを生み出すために、〈呪文〉とそれによって引き起こされる〈魔法〉を観測してフィードバックを得る。その行為には、詩歌の発生を思わずにはいられない。概ねpromptがポータブルに交換可能な長さの文字列であることから考えるなら、これは現代の短詩型文学ではないか。
     *
 〈他者〉や〈わからなさ〉といったことがここ数年時評子にとってのキーワードで、ここまで一年間の時評においても七月号「わからなさのなかに」や二月号「距離の外/『他者』のグラデーション」など折に触れて言及してきた。七月号で引用した平井弘の言葉に「〈他者〉などはじめから短歌の発想には存在しなくて、そこには〈対者〉だけがあるのではないか」(「他者をめぐる試論的展望」)という一節があったが、まさにこのような作品における〈他者〉とはいかにしたら可能であるのかが知りたかったし、個人的にはその鍵は〈他者〉を〈他者〉たらしめているような〈わからなさ〉の表現にあるのではないかと感じていたのであった。
  (…)空所は、読者がテクスト内部での均衡活動を行なう糸口となる。それに対
  して否定可能箇所は、読者に既知のことあるいは確定的な事柄を思い起こさせ、
  (…)読者は既知あるいは確定していることに対する態度を修正するように仕向
  けられる。(…)空所および否定を通じて、テクストと読者の不均衡に起因する
  読者の側の構成活動は、特定の構造をもつことになり、この構造が相互作用の過
  程全体を支配する。
                      W・イーザー『行為としての読書』
 イーザーは社会心理学や心理分析的なコミュニケーション理論における相互作用モデルから出発して、文学をテクストと読者によるコミュニケーションと捉えた。「空所」つまりテクストに対する読者の理解が及んでいないところや、一度は得られたかに見えた読者の理解が「否定」されるところがテクストには存在しており、その「空所」「否定」こそがテクストと読者の間に相互作用をもたらすとされた。イーザー曰く「空白が読者自身の投影で完全に補塡されるのは、相互作用の不成立を意味する」のであり、読者が自身の想像力をはたらかせながらテクストと共にその理解の豊かさを増していく過程には、常に「空所」「否定」が張りついていることになる。
 イーザーの意見を踏まえるなら、テクストに対する豊かな読解や解釈はつねに〈わからなさ〉に駆動される形で生み出されて、読者自身の思考を修正しながら最終的には読者の〈わかる〉領域に据えられる。〈わかる〉と判断されたものからは、〈わからなさ〉のなかにあったような相互作用は得られにくくなる。読解や解釈という行為で経験として豊かなのは、実は〈わかる〉領域よりも〈わからなさ〉のなかにあったときであり、このとき〈わからなさ〉は自身を消し去って〈わかる〉ように読者を誘う逆説的な働きをしている。
 ここには解釈や説明といった次元での単純な〈わかる〉とは異なった読解の可能性があると思われる。それは〈わからなさ〉のなかにありながらも〈わかる〉、という形式での理解なのではないか。
 六月号の時評「大きな悲しみのまえで」では、エリック・ブノワ「灰のうた」(『トラウマと喪を語る文学』)に触れた。ブノワは「喪の共有不可能な性質が、全人類に共通している」と述べるが、それぞれに共有不可能な部分がありつつも、その共有不可能という性質自体は多くの人に共通しているという受容の仕方には、〈わからなさ〉を許容しながら成立する理解の可能性が示唆されるように思う。
 近しい示唆は、アルフォンソ・リンギスによる『何も共有していない者たちの共同体』にも感じられる。リンギスは合理的な判断に従う者たちの共同体の一歩手前に、他者との出会いを契機として合理性に依らず成立する別の共同体があるということを指摘した。合理的な判断は、その判断のもとに行われたあらゆるものをその共同体に吸収するが、そこである人が他の人に対して見出すのは、リンギスによれば「自分自身の合理的性質の反映でしかない」。一方で、コミュニケーションには「合理的共同体」にとって「雑音ノイズ」と見なされながらもコミュニケーションの前提となる領域が存在する。
  (…)コミュニケーションのなかで共有されうる情報や意味の交換の手前には、
  そうした情報交換に還元され得ない、個々人の代替不可能性におけるコミュニ
  ケーション可能性がある。この代替不可能な次元は、諸個人が主体的に引き受
  けることができないような受動的な感受性に対応している。その一方の極には
  「誕生」があり、他方には「死」がある。(…)この自他の代替不可能性を
  (…)示す「誕生」と「死」は、もう一人の人間を要請する。この意味で「代替
  不可能性」はそれ自体の内に、ある種の相互性を内包している。(…)この代替
  不可能性の相互性は、その成立がつねに自らに反対のものを産出するという逆説
  によって特徴づけられる。
          堀田義太郎「アルフォンソ・リンギスと〈共同性〉への問い」
 堀田によるリンギスについての解説を引いたが、合理的なコミュニケーションの手前の領域におけるコミュニケーション可能性が、「主体的に引き受けることができないような受動的な感受性に対応している」ことにより、前提として〈他者〉を必要とする、という構図は非常に興味深い。この〈他者〉は合理的な方法で理解するよりも前の次元にありながら、確かに語りかけてきており、いま語りかけられる私という存在はその〈他者〉と寄り添いうるのである。
 合理的判断の手前に成立する共同体という発想は、〈わからなさ〉のなかにありながらも〈わかる〉状況を考える上でも示唆を与えると思われる。〈わかる〉という合理的判断に自身の把握を据えるとき、その手前にあって合理的な判断によらない〈わからなさ〉が影のように寄り添っている。そして〈わからなさ〉とはいまの自身で判断しきれないものであるということを思えば、確かに〈他者〉を前提としている。合理的判断の手前で、前提として存在する〈他者〉を感じつつそれに寄り添うことが、〈わからなさ〉のなかにありながらも〈わかる〉ための読解や解釈とつながるのではないか。
     *
 ではいったい、どのようにしたら短歌において〈わからなさ〉のなかにありながらも〈わかる〉ということは実現されるだろうか。先の検討を踏まえるならこの問いは、短歌において何が合理的判断に先立つ〈他者〉を成立させるのか、という問いに変換される。
 先の検討では、合理的判断に先立つものとして「雑音ノイズ」や、「誕生」・「死」といった代替不可能性に基づく〈他者〉の存在を挙げたが、これを短歌というテクストにそのまま適用するのは難しい。短歌は共通の言語体系に従って複数名の間に文字情報によって成立するがゆえに、通常受容の際にはその意味を合理的判断のもとに〈わかる〉領域に据えるというプロセスがどうしても発生してしまう。そのため短歌について考えるのであれば、短歌というテクストを理解しようと動き出してしまうプロセスの存在を前提としながら、この合理的判断に先立つ〈他者〉の存在を見出す必要がある。
 短歌において、合理的判断に先立つ〈他者〉となりうるものは何か。時評子は、それはリズム・語・事実ではないかと考えている。
 短歌において「合理的判断」とはどのようなものか。それはある作品についての解釈や説明を行うという仕方で、作品の意味内容を読者が定めるということと言える。これは作品を自分自身にとって意味的に理解可能なものに書き下し、それを〈わかる〉領域に据えるという自己化と同義である。ここでは作品についての〈わからなさ〉は現れず、すべてが既に自身に〈わかる〉ものとなっている。
 一方で、先に挙げたリズム・語・事実は、合理的判断の前提に組み込まれながら、その作品に対する読者の解釈や説明としては回収しきれない部分を有しているように思われる。
  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
                            正岡子規『竹の里歌』

 子規の一首を例にすれば、まず短歌に向かった読者は、読みながらその言葉によるリズムを体感する。このリズムには日本語の「拍」という最小単位から、短歌定型の範囲まで幅があるが、これらはいずれも何か合理的判断のもとに強く意味づけられることはない。もちろん、あるリズムの産む効果を解釈することは可能であるが、読んでいるさなかではリズムはあくまでも言葉をつなげていくときの呼吸として体感されているものであって、意味的な評価をするということは本質にない。むしろ短歌における合理的判断が時に作中の短歌定型の扱い方を踏まえて考えられることから、むしろリズムとは合理的判断の前で、本質的な意味は掴めないままにありながらも感受可能で、その他の合理的判断を律する〈他者〉である。
 共同体として既に定まっている語それ自体もまた、そうした短歌としての合理的判断には回収されず、そもそもそのような判断を行うための前提となっている〈他者〉と思われる。たとえば子規の作品を読んだとき、読者は「瓶」「に」「さす」……という風に、それぞれの語の語義を想起していくことになるが、それぞれの語はその作品上の合理的判断によって語義を定められたのではなく、作品よりも前に定められた語義が多くの場合にあって、それを想起する形で思い起こされたはずである。確かに語の解釈は合理的判断として回収されるのであるが、語それ自体はそうした判断よりも前に存在し、共同体として形成されてきたものであるがゆえに誰のものにもならない。語が新規につくられる場面もあるが、その際には語は当初語義の定まっていない〈他者〉であり、一度解釈されて共同体としての理解のなかに埋没してからは「誰のものにもならない」ゆえに特定の〈わかる〉領域に取り込まれず、その他者性を保つ。
 そして作品における事実や事実性といったものも、〈他者〉として成立しうるだろう。子規の作品では「瓶」にさされた「藤の花ぶさ」が「みじか」くて「たゝみの上にとゞか」ないという描写があるが、これらは事物同士の位置関係を明示する以上の情報を有さない。情報として客観的な印象を読者に与えるという意味で事実性のある表現――事実である必要はなく、少なくとも事実らしく演出された表現――といえるだろうが、このような表現もまた、その事実性ゆえに誰かの特定の〈わかる〉という領域には紐づかず、誰の目から見てもそう把握するほかないという仕方で、合理的判断による解釈よりも前の次元に存在する。語が連なって文を形成するとき、通常であればそこには文脈として解釈されることを期待した意味が発生するし、それらにテクストの上で出会った時わたしたちは合理的判断を働かせてしまうのであるが、特に事実性の表現については、文として構成されながらもその理解は誰のものにもならない情報として短歌的な解釈に先行する。事実性の判断自体は自身の合理的判断となり得るが、その認定を受けた事実や事実性の表現は、その後も特定の人に取り込まれない〈他者〉としてあるのである。
     *
 リズム・語・事実という三つを、〈わからなさ〉のなかにありながらも〈わかる〉というしかたを短歌にもたらすものとして挙げて検討した。この仮説がどこまで機能するのかは、続く時評のなかで折に触れて批判し、確かめていく必要があるだろう。ただ、解釈可能性や説明可能性を超えたところに、〈他者〉を〈わからなさ〉のままに〈わかる〉、本当の意味で〈魔法〉のような作品の可能性があるのではないか。すべてを同一な自己に取り込むのではないわかりかたを磨くことが、よりひらかれた豊かな制作と読解につながると、いまは少し楽天的に考えて進んでみようと思っている。

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