短歌時評

ないがある / 浅野 大輝 

2023年2月号

 読んでいないものがたくさんあるなか、「塔」二〇二二年十二月号の短歌時評「〈わからなさ〉のままに〈わかる〉ということ」を読み返している。浅野は正岡子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」(『竹の里歌』)を引用して「事物同士の位置関係を明示する以上の情報を有さない」と評しているが、よくよく思えばこれは不正確な評であろう。「とゞかざりけり」などの表現には作者ないし作中主体として特有の視点が含まれており、その点で先の評のようには言えない。子規の作品に見られるような否定の表現は、現実世界に可能性としてのみある/あったものを仮想的に立ち上げる役割があろうし、またそのような仮想的に立ち上げられる像――子規作品の場合には、「藤の花ぶさ」が「たゝみの上にとゞ」いたかもしれないという別の世界線についての像――を見出せることにこそ歌の核がある。だから先の評は不正確で、言えるとしても「事物同士の位置関係を明示する以上の情報が少ない、、、」というまでに止まるのではないか。
 「見せ消ち」など含め、否定表現が歌における事実性や客観性に及ぼす影響を考えるといろいろ興味深いものがありそうであるが、そのような意識で近刊の歌集を読むと、ここで挙げているような否定表現を巧みに操り、逃れ難い魅力を発している作品が目につく。
  廃線を歩いていった記憶あり あれは廃線、人生じゃない
                         廣野翔一『weathercocks』
 廣野翔一の作品はこれまでも常に触れてきたつもりであったが、歌集としてその歩みを再読すると、否定表現に特に魅力のある歌が多いように思われる。「廃線」を歩いた記憶は何かの象徴としての意味を纏い始めてしまうが、それを「人生」と束ねてしまうことの安直さを廣野作品は知っている。
  水脈に一切の光行き渡るあなたと暮らす秋があるなら
  成海璃子がずっと年下である日々を暮らすしかない 岬遠き街
  泥、そして花びらを掌に載せたまま動くことなし青きユンボは

 「あなたと暮らす秋があるなら」という脆い仮定があり、それが否定されうるものであるがゆえに光は行き渡る。年下の才能の存在をはじめ、様々なことが自身の在り方を危うく感じさせるが、わたしたちはそのような時間の流れを逃れて暮らすことはできない。動かない「青きユンボ」を見つつ、しかし同時にそれが力強く駆動する予感を信じている。廣野作品においては、否定や仮定などの表現が、望まれている〈いつか〉と逃れられない〈いま〉の両面を鮮やかに描き出している。
  声変はりしてうたへなくなる曲の高音域にゐた夏の日々
  詩のことば知らざりし日よ校庭にほそき一輪車を乗りこなし

                        鈴木加成太『うすがみの銀河』
 鈴木作品の本領は、詩語を肯定形のなかに置いて魅力を増幅させていく手腕にあると思うが、そのなかにおいて引用歌のような否定形の作品は良いアクセントとなっている。特に引用歌二首では現在の時間における否定表現が、消失してしまった自身の部分を逆に明瞭に照らし出している。ここに鈴木の手腕の確かさが見て取れると時評子には思われる。
 取り戻せないもの/手の届かなくなったものへの思いが否定を伴って現れるということには、「どうも私たちの感性は(…)ものの消滅の方により敏感に反応する」という永田和宏の「虚像論ノート」(『解析短歌論:喩と読者』)の言葉を思い出す。〈ない〉が鮮やかにある言葉の世界にあって、不在とは他者なのだろうか、自己なのだろうか。〈ない〉のなかにある言葉と他者に何か大きな可能性があるのではないかと、ぼんやり考えている。

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