短歌時評

「どう詠む」のまえに / 浅野 大輝

2023年11月号

 「歌壇」二〇二三年十月号の特集「どう詠む?孫の歌――甘さを避けるには」を興味深く読む。各論者とも、作品内で孫という存在を扱う場合に表現の甘さが生じやすいことをある程度共通認識としている一方で、「甘くなること自体はしかたない」(花山多佳子)など作者の心情に一定の理解を示す発言も見受けられるところが何だか微笑ましい。
   だが、誰もが孫の歌を詠えるというわけではない。子どもがいなければ、孫が
  いるはずもなく、気づけば時代は、少子化が問題となっていた。孫の歌が詠える
  ことは、もはやごく普通のことなどではない。
                     久我田鶴子「未来を生きる者たちよ」

 特集中、特に印象深く感じた一節を引く。厚生労働省がまとめた二〇二二年の「国民生活基礎調査」によれば、二〇二二年時点で児童(十八歳未満の未婚の者)がいる世帯の割合は全世帯のうち一八・三%。八割の世帯には子どもがいない。二〇二二年の出生数を見ても、八十万人を割り込むなど少子化は進行を続けている。もはや子どもが家庭にいることは普通のことではなく、この段階においては「どう詠む?」という特集の問いかけもずいぶんと贅沢な言葉のようにさえ思われる。
  子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
                           穂村弘『シンジケート』
  (…)生殖から遠ざかれば遠ざかるほど、異性との関わりは現実感を失い、淡く
  美しいものになるだろう。若い男性歌人の幾人かは、生殖の問題を振り捨てるこ
  とにより、透明感のある文体を手に入れている。
                吉川宏志「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容」
  
 一九九四年の評論で、吉川は近代以降の男性歌人が妊娠・出産とどう向き合ったのか(あるいは、向き合ってこなかったのか)を追い、女性歌人による妊娠・出産をテーマとした作品が一九九四年当時積極的に発表されていたことを踏まえながら、「これまでに男性歌人が無意識に避けつづけてきた生殖というテーマを、いかにリアリティーをもった表現で、自らの切実な問題として歌っていくか」という問題提起をした。引用部はそのような観点で見た際のライトバース/ニューウェーブ期の男性歌人に対する評価である。
 先に引用した二〇二二年の「国民生活基礎調査」には、ちょうど穂村の連作「シンジケート」が角川短歌賞次席となった一九八六年のデータが過去データの起点として掲載されているのだが、その時点での児童がいる世帯の割合は四六・二%。つまり子どもがいる家庭/いない家庭が大体半々くらいの割合であったわけだが、「子供よりシンジケートをつくろうよ」などの表現で「生殖の問題を振り捨てる」ことができていたのは、そうした社会における家庭内の人員構成に依る部分が大きかっただろう。不妊問題が公的に言及され始めたのが九十年代後半からということも併せて考えると、子どもを持つか/持たないかということがまだ選択肢として機能していたがために表現の問題ともなり得たというのが八十年代から九十年代だったと言える。
 一方、現在はどうか。先に挙げたデータのほか、児童のいる世帯の平均所得が、全世帯の平均所得の一・四倍というデータもある。金銭的な余裕がないために結婚や子どもを望みにくいという状況が垣間見える。子どもを持つかどうかということは、既に選択できるかどうかさえ怪しいものとなっている。
 生活上の選択肢となり得ないものを「どう詠む」といつまで問い続けられるのか。俎上に載らず、消えていくかもしれない表現に対し、「どう」の遥か手前でまずは「詠む」ことを最大化する必要があるのかもしれない。

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