短歌時評

異界的なリアリティ / 浅野 大輝

2023年6月号

 モキュメンタリーが好きで、時折それに当てはまるような作品を鑑賞したり、作品についての考察をWebで読んだりして楽しんでいる。古くは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』といった映画、最近では『このテープもってないですか?』『蓋』といったテレビ番組など、といって伝わるだろうか。映像作品やホラー・サスペンスとの親和性が高い気もするが、『スパイナル・タップ』といったコメディ映画も名高いし、書籍だと学術論文のパロディであるハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』も含めて良いかもしれない。フィクションをあたかも現実に存在したモノ/コトのように表現するこのジャンルは、フィクションの世界と現実との境目を曖昧にして、鑑賞者のすぐ近くまで異界的なリアリティを差し込んでくる点に非常に魅力がある。
 フィクションを現実であるように見せるために様々な手法が取られるが、その主要な方法は現実世界においてすでに一定の市民権を得ている形フォーマット式の力を借用するものであるといえよう。例えばフィクションの世界の出来事を現実世界の一般的なニュースの映像のように編集して提示したり、POV形式といった登場人物の視点や手持ちカメラでの撮影を模したシーンを構成したり、メディアミックス的に登場するWebサイトなどを現実でも閲覧できるように用意したりする作品があるが、これらは現実に多くの人が見たことがある形式に則ってフィクションを提示することで、そのリアリティの強度を高めている。言い換えれば、単純な内容だけでなく、その内容を提示する形式の方にも、そのフィクションの事実らしさは支えられているのである。
  誰もが他人とは交換できない〈私〉の生を、ただ一回きりのものとして引き受け
  てそれを全うする。一人称の詩型である短歌の言葉がその原理に殉じるとき、五
  七五七七の定型は生の実感を盛り込むための器として機能することになる。
                      穂村弘「モードの多様化について」
 急に短歌の話になる。引用は穂村による「『生の一回性』の原理」にまつわる文章であるが、特に近代短歌においてこうした短歌の「モード」は短歌の内容を「実感」として響かせるように短歌の形式を強化してきた。
 引用部の後の文章で、穂村は戦後以降「モードの多様化」が「自分自身が死すべき存在だという意識の稀薄化」と表裏一体に進むなかで、「現実も想像も、言葉の次元では全てが等価であるという錯覚」が生まれ「いわゆる『なんでもあり』の感覚」が表現に現れてきたと指摘する。時評子はここで「現実も想像も、言葉の次元では全てが等価」という部分に着目し、〈言葉の次元で全てが等価になったなら、事実でないことも事実のように見せるという短歌形式の側面が強化されたのではないか〉と考える。強引な考えだが、短歌の内容が「生の実感」であるという感覚もいまだに根強いことを思えば、もし短歌において現実と想像が等価になったなら、想像された実感もまた「生の実感」に見えてしまうのではないか。そのように思えば、短歌形式もまた、現実と想像の境界を曖昧にする形式と言えるのではないだろうか。
  玄関を入るとすぐに階段で秋のひかりは這い上がりたり
  倒れたる墓は直角をむきだしに雨に濡れおり朝の山道

                           吉川宏志『雪の偶然』
 近刊の歌集より、短歌的解釈に先行しそうな、事実性が強いと思われる表現を引く。前号時評では「事実ではない事実性」に表現としての説得力を見たが、現実と想像が曖昧になった空間で、何か解釈のしようもなく事実であるかのように見える言説がなされるとき、それは短歌における〈異界的なリアリティ〉としての作用をもつのかもしれない。

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