比喩について / 浅野 大輝
2023年7月号
AとBが全く関係ない、一見似ても似つかないものであればあるほど、直喩の持
つインパクトは強くなる。(…)作者は直喩を用いてそれまで存在しなかった新
たな類似性をこの世に生み出すことができるのである。
松村正直「新たな関係や幻を生み出す」
自然を観察する重要さが失われたわけではない。たとえば早川の歌(註:早川志
織による「今日われはオオクワガタの静けさでホームの壁にもたれていたり」)
は(…)実物の静けさを捉える観察眼がやはり働いていると言えよう。そこに比
喩が組み合わされることで、自己と他の生物が混じり合うような不思議な身体感
覚が生じるのである。
吉川宏志「観察から比喩へ」
松村の文章は「歌壇」二〇二三年六月号の特集「直喩の深まり」から、吉川の文章は角川「短歌」二〇二三年五月号のシリーズ特集「対比に見る短歌の構造学」第二弾「自然 vs. 人」から、それぞれ引用した。別々の誌面・特集ながら、ともに短歌における比喩について取り上げている点が興味深い。
山梨正明『比喩と理解』によれば、認知言語学において比喩の解釈とは、喩えるものと喩えられるものの表現の間に選択制限の違反(通常共起しない語句同士を結びつけて語ること)や叙述上の違反(表現としては正しいが内容が文脈的に成立しないこと)を認めることに端を発し、喩えるものの顕現特性(対象のプロトタイプ――文化的に定義された典型値を特徴づける部分)を喩えられるものに転写することで、喩えられるものの概念体系の再構成・再解釈を行う過程と捉えられる。
短歌には(…)プロトタイプ特性を判断できない比喩が多いように感じる。しか
し、それを判断し、確定できなくても読者が置いてきぼりにならないような仕掛
け(…)によって、むしろ「分からないからこそいい」という歌になっているの
だろう。
川上まなみ「比喩の理解のされ方」
「塔」二〇二一年二月号の川上の文章も、まさにこうした認知言語学的な観点から短歌の比喩を論じたものであったが、ここで短歌における比喩の理解の難しさが語られていることに着目したい。比喩の理解には喩えるものと喩えられるものの間に何らかの類似性を認める必要があるが、一方で単に類似しているのでは表現として魅力が少ない。転写する特性に何らかの意外性や新奇性を見出せるからこそ表現としての独自の魅力が認められるのであり、そのような独自性を得ていく過程で必然的に作品としての〈わからなさ〉は増大する。魅力を伝達したり発見的な表現に近づいたりするために〈わからなさ〉に肉薄せねばならないというアンビバレンツがあり、これに対するケアとして吉川が指摘するような観察や身体感覚を研ぎ澄ます方法が取られている、と言うこともできるだろう。
あらかじめ自分の設定した認識の方程式によって世界を裁断しようとするとき、
(…)喩は〈発見的認識〉の武器としては機能し得なくなるのだ。
永田和宏『解析短歌論:喩と読者』
永田の文章で語られていることもまた、自身が〈わかる〉ことだけに閉じてしまう危惧である。魅力ある作品を生み出すためには、制作のなかでも〈わからなさ〉へ飛び込んでいくことが求められているのである。
大きなる空き缶のごとき泣き声を赤子は発し通りをゆくも
渡辺松男『牧野植物園』
最近読んでいた歌集から引く。「空き缶」と「泣き声」が繋がる回路はどこか。わからないからこそ惹きつけられるものがある。