短歌時評

能登に雪降ると聞く / 小林 真代

2024年3月号

 二〇二四年一月一日、能登半島で最大震度7を記録する地震が起きた。騒然とした年明けとなった。
 被災状況が次々と報道され、地震発生時の様子や津波を被災者自身が撮影した動画も公開されているが、それらの動画のいくつかに「やばい、やばい。」と言う声を聞いた。聞きながら、自分も同じように「やばい、やばい。」と呟いた時のことを思い出した。
   二〇一一年三月十一日十四時四十六分。深い長い揺れに耐えながら、本棚から
  本が雪崩れ落ちるのを見た。蓄熱暖房機を留める金具が壁にめり込んでいくのを
  見た。やばい、やばい、と呟きながら、テレビの電源を入れた。窓の外を鴉が不
  格好に飛んでいくのを見た。羽ばたく音が聞こえた。雪が降っていた。犬を抱い
  た隣人が外に出ているのが見えた。ときどきテレビのニュースをチェックしなが
  ら、津波、と思った。(後略)
 自分の書いたもので恐縮だが、塔短歌会・東北の『2566日目 東日本大震災から七年を詠む』に収めたエッセイ「震災後、初めて詠んだ一首」から引いた。「震度6に揺られて棚の奥処から故人の介護計画書降る」という歌があわせて掲載されている。
 被災した状況も被災への感じ方もそれぞれ違うから、能登半島地震で被災された方と当時の自分を単純に重ねることはしないけれど、地震の恐怖や、その後の様々の困難を私はなまなましく思い出す。そして動画にも文章にも残らないとしても、その時「やばい、やばい。」と思わず口にした人がたくさんいただろうことをなまなましく想像する。
 こういう切迫した状況でたとえば日頃の愛誦歌など浮かんでくるわけもなく、「やばい」という言葉しか出てこなかった自分を、そういうものだろうと受け止めるのだが、一方では、「やばい」しか言葉が出てこないような状況からもやがて歌が生まれるのだから、つくづく人間のすることは不思議だなとも思う。このエッセイの続きに私は「やばい、やばい、と揺られながら歌をつくっていたわけではなかった」と書いているのだが、どうやってあの大地震の日に歌をつくったのか思い出せない。ただ歌だけが残っている。「やばい」から私の言葉はまた始まったのかもしれない。
 去年、関東大震災から百年が経ち様々な振り返りが行われたことは記憶に新しい。そして今年の一月十七日には阪神淡路大震災から二十九年となった。当時の犠牲者を悼む心は能登半島地震の犠牲者にも寄り添う。平成や令和の震災詠が百年後にどれほど読まれるかはわからないけれど、いま詠わずにいられないことは詠うしかなくて、そうして生まれた歌がいつかどこかで誰かに寄り添うだろう。
 もちろん歌に詠まれないこと、人に知られないままの思いもたくさんある。詠う人も、詠わない人も、それぞれに深まってゆくいまの思いが大切なのだと思う。
  《一月十一日(木)》
  被災地を思へばかつて被災地のわれを呼びくれし声よみがへる
  《一月十二日(金)》
  東北と違ふ寒さがあると聞き聞くのみ能登に雪降ると聞く
  《一月二十二日(月)》
  臨海はかつて隠され今なにを隠し半島のくびれに二基は
 ふらんす堂ホームページに連載中の大口玲子の短歌日記「心を上に Sursum Corda」より。被災地の厳しい状況に何度も打ちのめされるけれど、打ちのめされた、とどんなに思っても、私にはわからないことが多くて、できることが少ない。日々を暮らしながらただそのことばかりが身に沁みる。それでもいまの私は、もし言葉で伝わることがあるなら、と思わずにはいられない。

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