短歌時評

ChatGPTと短歌 / 浅野 大輝 

2023年9月号

 「短歌研究」二〇二三年八月号の特集「AI短歌の時代に備えよ。」を興味深く読む。特集内では坂井修一・澤村斉美・佐佐木定綱による座談会のほか、歌人二十名の指導のもとOpenAIのサービスChatGPTで生成した短歌を並べた「ChatGPT歌会」が催され、AIと短歌の現在/未来を読者に考えさせる。
  佐佐木 (…)短歌の創作という点で見ればわくわくしかしておりません。
  澤村 (…)自分は短歌に、言葉に、人間を求めているんだな、ということがわ
  かってきました。(…)創作における人間らしさとは何なのかを問われていると
  思います。
  坂井 芸術としての文学、それも韻文が最後に残ると私は信じています。しかし
  (…)短歌は作ったり理解したりするのに相当年季もかかるし、根性もいるから
  そんな面倒くさいものはもういいんじゃないってなる可能性はあります。そっち
  のほうがずっと怖いかもしれませんね。
 ChatGPTのユーザー/職業人/専門家/歌人などの立場から三者が率直な意見を述べている。AIへの警戒感は含みつつ過度な不安視はしておらず、冷静に自身の心情や創作環境の変化を確認している座談会であった。
 新たな技術要素によって社会が変わるかもしれない。そのとき短歌はどうなるか――そんな問いはこれまでも何度かあったと思う。
 時評子が特に思い浮かべたのは、一九九〇年代後半のインターネットの登場だった。このときは坂井がインターネットやマルチメディアの普及が進む社会で「歌人や短歌そのものに著しい質的変化はあるだろうか」(「マルチメディアと短歌」)など複数回取り上げたほか、多くの歌人が短歌を取り巻く変化について比較的冷静に反応した。そこで語られた内容は、ネット接続が日常となった現在の状況と比較してもあまり乖離していない。
 それを鑑みるに、AIと短歌の関わりに極力冷静な態度で言及した今回の座談会の内容もまた、ある程度予測として機能するように思われる。座談会で語られた「芸術としての文学」は、確かにAI時代もしぶとく人間的なものとして生き続けるのかもしれない。
 人間的なものとして短歌が生き続けるとして、ではどのような短歌が人間的であるのだろうか。その問いに対する答えは今後AIの発展によって変化し続けるだろうが、近々では表現としての魅力と、言語の運用としてのAIの言語モデルからの乖離の度合いという二者のバランスで判断されるのではないか。
 ChatGPTなどの生成AIが利用している言語モデルは、基本的にある単語が与えられたときに次に来る単語が何であるかという確率を計算するものである。ChatGPTが利用するGPT-4などのモデルはモデルサイズもデータセットも大規模で、単語間・文章間の関係性に着目する機構なども含むが、ベースとしては前の語句からもっともらしい次の語句を見つけ出すという仕組みの上にある。これは既に世の中に存在する言語の運用方法を効率的に模倣可能であるが、一方で詩歌は比喩などにより日常的な言語の運用方法を逃れる形で成り立っている。そのためAIが生成しにくい日常言語から外れた表現で、かつ比喩としての新奇性がある表現の価値がさらに上がり、人間的なものとして判断されるようになるのではないか。また表現としての訴求力がある詩的な言語運用を見出す手掛かりとして、AIが現状持ちにくい身体性による記号接地の有無が焦点となるかもしれない。
 技術の進化にあわせて、自己表現と創造性の新しい側面を探求し、深化していくことが必要となるだろう。短歌とAIを巡る議論が今後さらに活発化することが期待される。
※本時評の執筆にはChatGPT(GPT-4)を利用していることを付記する。

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