短歌時評

ウォーターリリーあなたは誰だ / 小林 真代

2024年6月号

 最近楽しんで読んでいたのは、川野里子歌集『ウォーターリリー』とその歌集評。
  ウォーターリリーここに生まれてウォーターリリーここがどこだかまだわからな
  い

 この歌から始まる歌集には「ウォーターリリー」(睡蓮のこと)が繰り返し詠まれ、それが最大の特徴になっている。「ウォーターリリー」の歌は、それを含む連作だけでなく歌集全体にその声を及ぼし、短歌の表現の面白さについて考えさせられる。そしてその面白さを言葉にしようとする歌集評もまた面白い。
 土岐友浩は、「ウォーターリリー」は連作に繰り返し詠われながらその純度を高めてゆくと書く。そして次のように歌集評を結ぶ。
   「ウォーターリリー」と呼ぶうちに作者はウォーターリリーと同化する。その
  上には、純粋な、声なき祈りという無が乗っている。
                       「うた新聞」二〇二四年二月号 
 「ウォーターリリー」の繰り返しに或る切実さを感じとっている。歌集の題辞には「わたしはひとつの声であり、また多声である。」と書かれていて、その「多声」がさらに土岐によって「声なき祈り」へと昇華してゆく。
 千種創一はnote(文章、写真、音楽等の作品を配信するウェブサイト)に「睡蓮試論」と題して歌集評を載せている。歌集を編む際は同じ題材の繰り返しを避けるものだが、「ウォーターリリー」の繰り返しは前向きに機能しているとし、その理由を次のように書く。
  (前略)睡蓮たちが、陸と水の境目、ひいてはこの世とあの世の境界として機能
  して、「私」の声に「他者」の声を混ぜる媒介となっているからである。
 短歌の基本は一人称だが、他者の声を混ぜることで人称が重層化するとも述べていて、それは「ひとつの声であり、また多声」を思わせる。人称の重層化により歌集世界の重層化にも成功していると千種は説く。
 小島なおは、「聞く」ことに重心をおく。
   ポリフォニー、多声であろうとすること。朝ひらき、夜には閉じてしまう睡蓮
  の花にも似た小さく遠い声を拾い、短歌に託すことをこの歌集は志向している。
  それはハーモニー(調和)とは違う。他者の声を聞くこと、それがダイアローグ
  のはじまりだから。
                        「短歌」二〇二三年一二月号 
 「聞く」ことへの意識は、「私は語り手ではなく聞き手でありたいと思うようになりました。」という歌集のあとがきを踏まえてのことだと思うが、小島の言葉によって「聞く」ことが根源的なことだと気付かされる。
 『ウォーターリリー』には広く社会や歴史を詠んだ歌が多く、それらは他者の声を「聞く」ことや「多声」と深く関わる。どの歌集評もそれぞれにその点に言及しているのだが、ここでは紹介するスペースがない。
  にんげんのにんげんによるにんげんのための虐殺 しらほねを積む
 カンボジア虐殺刑場跡の歌。「にんげん」の繰り返しが「しらほね」へと重たく重なる。「ウォーターリリー」の繰り返しが目立つ歌集だが、実はそれ以外の繰り返しも多く、こうした繰り返しの繰り返しが歌集全体で大きなうねりとなって読み手を巻き込む。
  ウォーターリリーウォーターリリーウォーターリリー そこにゐますね
 歌集の巻末の歌。なにかがいる気配は感じるが、それはいったい何なのか。川野里子自身は「ウォーターリリー」の繰り返しについて、対談の中で「自分にとってもなんなのかよくわからなくて、結局なんなのか決まらなくていいような気がしています。」と言っているのだけれど(「短歌」二〇二四年二月号)。
 どんなことばで歌を、歌集を語れるのか。歌集評には、それこそ多声の面白さがある。

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