短歌時評

短歌甲子園二〇二三 / 浅野 大輝

2023年10月号

 八月十八日から二十日の三日間、岩手県盛岡市で「第十八回全国高校生短歌大会(短歌甲子園二〇二三)」が開催された。本誌二〇二二年九月号の短歌時評で昨年大会(短歌甲子園二〇二二)に触れたため大会概要についてはそちらを参照いただきたいが、今年も全国から二十一校が参加し熱戦を繰り広げた。
 時評子は昨年に続き審査員として参加した。今年も非常に魅力ある作品が多く発表されたため、今回はその一部を紹介したい。
  片時雨の境界線を歩くとき
  ぼくらは
  不安定なひとしさ     
              神田実咲(題「雨」)

 団体戦一次リーグでの作品。「片時雨」という語を見出し、その「境界線」と「ぼくら」の不安定な在り様を重ねあわせて提示した、完成度の高い一首。三行分かち書きによる表記は石川啄木に倣った本大会の特徴の一つであるが、二行目に「ぼくらは」とのみ配置することでそのよるべなさを表現するなど、三行の形式を効果的に活用しているのも注目すべきポイントであると思う。
  スマホ内の写真を下にずらしてく
  幼くなっていく
  君がいて
              小野光璃(題「スマホ」)

 団体戦決勝トーナメントでの作品。決勝トーナメントからは題の発表後二十分から三十分程度で作品を提出しなければならない。題も意表を突く語句が出ることがあり作者としては厳しい条件であるが、各作者はそれを乗り越えて良質な作品を提出してくる。
 小野作品は「スマホ」という難題に対して、大切な存在と共に過ごしてきた時間を振り返ることができるもの、という魅力ある認識を提示している点に力がある。各行が少しずつ短くなっていることで時間を遡上しながら「君」にフォーカスしていくような効果が生まれており、表現としても説得力がある。
  弁当を
  夜明けの前に作る母
  ピカチュウなんて言ったばかりに
                作山優斗(題「明」)

 こちらも団体戦決勝トーナメントの作品。表現と内容のギャップから主体の幼い頃の回想であろうか。自身の発言を受けて世話を焼いてくれる家族に対する申し訳なさと、他方で世話を焼いてしまう「母」の思いやりの、両方が見えて惹かれる。三行目の「ピカチュウなんて言った」は〈ピカチュウのおべんとうをつくって!〉というような発言なのだろうが、実際の発言をそのまま入れるのではなくて、発言を想像させつつも申し訳なさを含む省略した表現に収めたことで、歌が語り出そうとするストーリーが一首のなかにとどまらずに広がりを持って響いている。
    *
 昨年大会についての時評で「勝ったとか、負けたとか、賞をとったとか、直接的な結果だけが重要なのでは決してない」と書いた。審査員の立場でこうした発言をすることは些か矛盾もあるが、今年もこれが本心だった。
 本来、創作という行為に勝ち負けはない。もちろん、創作された作品に対しては評価を行うことができるが、その判断はあくまでもその作品が提出される〈場〉の文脈に依る。〈場〉の文脈に依存した評価を受けることは作品である以上は逃れられないが、一方で〈場〉の文脈に依らざるを得ない点に評価という行為の限界があることも見逃すことはできない。勝利や受賞を目指す過程で得られるものも勿論あるが、行為に勝ち負けがなく、また作品評価という行為に限界があることを思えば、やはり〈場〉の文脈に従った勝利や受賞のみが重要なのではないはずである。
 つくってみせる/もらう、というやりとりで他者と出会う。それがこうした大会の面白さの本質である。勝利や賞を超えて「楽しかった」と言えれば、それで良いと思う。

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