短歌時評

魔法は歌人を殺すか(前) / 浅野 大輝 

2022年10月号

 二〇二二年八月、MidjourneyとStable Diffusionという二つのAIがそれぞれ話題となった。これらは両方とも人間が言葉――Stable Diffusionの場合には人間が描いた簡単な下絵でも良い――を入力することで、その内容に沿った画像を出力してくれるというAIであり、その出力する画像のクオリティの高さにWeb上の人々が少なからぬ衝撃を受けたのである。特にStable Diffusionについてはオープンソースで一般に無償公開されているほか、音楽や映像などそのほかの分野で同様のオープンに利用できるAIを実装する取り組みも続けられていることから、AIの民主化と呼ばれる動きを加速させ、人間の創作活動を中心に社会全体に大きな影響を及ぼすことになるのではないかと見られている。
 文章生成においてもAIの発展は目覚ましい。例えば、OpenAIが開発したGPT-3は人間による文章と比べて遜色がないほど自然な文章の出力が可能で、その有用性から既にMicrosoftのサービスに実際に利用されている。日本語による文学の分野では小説を出力してくれる「AIのべりすと」「AI BunCho」が公開されているし、文学賞の「星新一賞」第九回ではAIを執筆に利用した作品が全体の四%を占めた。短歌に限っても、NTTレゾナントが開発した「恋するAI歌人」や、朝日新聞社メディア研究開発センターが開発した短歌AIなど複数の例を挙げることができる。
 ここまで紹介したAIはいずれも誰もが利用することが可能であるが、実際に触ってみるとその性能の良さに驚かされる。AIを利用することで、これまでは長い時間をかけてやっと得られたような創造的な活動の結果も、これまでより少ない労力で、誰でも簡単に得ることができるようになる。技術の革新と普及とはそういうものなのだと理解しつつも、それは確かに〈魔法〉のように見える。
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 もしも歌集にして一、二冊分くらいの短歌をもとに、その歌集の作者らしく見える高品質な短歌を生成するAIが誰でも簡単に利用できるようになったら、何が起こるだろう?
 たとえば、このようなことは起きないだろうか――ある作者が短歌を作り続け、それが一定数になった。その作者は、それまでの作品をAIに読み込ませ、自身の作風での短歌を生成する。AIを利用しているとは告げず、その作品を自身の作品として発表するようになった。それにより対外的に評価をもらっていたが、ある時その作品がAIを利用して作ったものであると周囲が気づいた――。
 これは既存の〈歌人〉という存在が持っていた作品制作という役割をAIで偽装できるという事例であるが、しかし「高品質な短歌を生成するAIが誰でも簡単に利用できる」という状況は、おそらく事態をこのような個人レベルの問題のみでは済ましてくれない。
 〈歌人〉とは対外的な評価と自身の活動に対する責任感とが合わさったときに述べられる肩書きと言えるだろうが、「歌集出版」という活動はまさにこれまで〈歌人〉の対外的な評価を高めるものとして機能していた。ところが、もしも歌集数冊の情報があれば誰でも簡単にAIで短歌作品が作れるのだとしたら、「歌集を数冊出しているから、もしかしたらもう自分では作らずに、全てAIに作ってもらっているのではないか」とも言われうる。つまり、これまでなら作品を世に送り出すことで積み上げることができていた〈歌人〉としての実績が、「高品質な短歌を生成するAIが誰でも簡単に利用できる」という状況下においては逆に「その〈歌人〉は本当に今も自分で歌を詠んでいるのか?」という疑念に転じることになる。そしてこうした疑念が――AIは誰でも簡単に利用できるのだから――歌集を数冊出している、〈歌人〉と呼ばれうる人々すべてに対して向けられるのである。

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