短歌時評

『桜前線開架宣言』―新しいアンソロジー / 花山 周子

2016年8月号

 第十四回前川佐美雄賞が発表された。受賞は黒瀬珂瀾歌集『蓮食ひ人の日記』。この歌集のことも機会があれば書きたいが、今回はその候補作になっていた山田航編著『桜前線開架宣言』(左右社)について。先にこの本の大まかな体裁を言えば、穂村弘(一九六二年生)以降、一九七〇年より後に生まれた歌人四十人を生年順に並べた、小高賢編著『現代の歌人140』(新書館)に続くアンソロジーだ。各歌人には山田による見開きの紹介文と五十六首が掲載され、まだ歌集のない平岡直子や藪内亮輔、小原奈実の歌もまとめて読めるのだから、この先、現代短歌の虎の巻として大いに活用されていくに違いない。土岐友浩は「現代短歌の成果が、とうとう目にみえる形になってまとめられた」(「短歌のピーナツ」)と告げる。誰かがやらなければ、それは目にみえるかたちにはならないのだった。本ができてみて気づかされたことである。
 「選考を終えて」(「短歌往来」六月号)では選考委員が、「四十人の特徴を書き分けるのは至難の技だが、類型を感じさせないから飽きない」(三枝昻之)、「ひとりひとりの歌人を丁寧に論じることで(略)世代のキーワードを捉えている。この時代の歌人像を明示したのである」(加藤治郎)とも書き、高く評価されたことがわかる。
 ところで、この賞は「当初より〈無差別級〉の短歌文学賞であることを標榜してきた」(加藤治郎)ということで、これまで賞の対象になりづらかったいわゆる歌書のたぐいも積極的に評価する。私は先月、「短歌評伝に対しても文学的視座から積極的に評価する必要を感じる」と書いたが、今賞では他に中根誠の『兵たりき―川口常孝の生涯』も候補になっていて、この賞のポテンシャルの高さが窺える。
 さて、『桜前線開架宣言』が私に魅力的だったのは単に便利だからというのでもなくて、寧ろ便利に使おうとすれば、案外使えないところが魅力的だ。たとえば、その歌人の有名歌は見当たらず、記憶にない歌が並んでいたりする。山田はこの本で全ての選歌をこなし、その選歌基準も彼自身のものなのだ。そこには当然、山田の主観が反映される。「問題発言や筆が滑っているところもいっぱいあるのですが、山田さん自身の短歌観や短歌を面白いと思う気持ちが、前面に出ているのが素晴らしい」(石川美南「歌壇」五月号の座談会発言)、「山田が選んだのは四十名。このセレクトにはさまざま異論があるかもしれない。」「『誰を選ぶか』はここではあまり問題ではないのかもしれない。それぞれの作者についての解説は、そのまま山田の短歌観、人生観と重なるのだろう」(岡崎裕美子「短歌往来」五月号)、「文中には率直過ぎたり、偏向を感じる点もあった。だが今、短歌界にはこの熱量が必要ではないだろうか」(沼尻つた子「塔」四月号)。これらの感想には、この本がそもそも主観で成り立っているという共通認識がある。その共通認識がこの本を開かれた空間にする。ふつう、こうしたアンソロジーの場合、主観的に編まれたものでも客観的な顔をして成り立つようなところがあるが、山田はあくまで「ぼく」という主語から、その責任の一切を負って書き、読者に手渡す。寺山修司から短歌に入り、歌集をヤングアダルトだと思っていたという彼は「まえがき」で言う。
 どうせなら、ぼくと同じ勘違いを、これから短歌を読もうとする人みんなすればい
 いと思う。みんなですれば、もう勘違いじゃなくて事実だ。
 山田航という一人の歌人のモチベーションがこの本を支えている。そのことが九十年代から現在にかける意外なほど見通しのいい風景を提示してくれていることに感動する。

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