八角堂便り

映されなかった景から / 永田 和宏

2016年8月号

 京都産業大学の連続対談シリーズ「マイチャレンジ」の企画を担当している。年四回、各界のトップランナーを招いて、一歩踏み出す勇気さえあれば、どの学生にも、誰にも可能性は等分にあるのだということを実感してもらいたいというところからスタートした企画である。
 一月の山中伸弥博士を第一回として、四月に将棋の羽生善治名人、そしてこの七月に映画監督の是枝裕和氏をお招きした。講演のあと、私との公開対談がある。
 対談ならまだしも、公開対談というのがどうにも苦手でうまくいかない。一対一で興味のあるところをどんどん突っ込んで話をするというのが対談なのだが、六〇〇名以上の聴衆が目の前にいると、どうしてもそちらに遠慮をしてしまって、もう一歩の突っ込みが足りなくなる。皆さんおもしろかったと言っていただくのでなんとか救われているが、自分ではどの回も不完全燃焼なのである。
 今回、是枝さんともいろんなポイントで話をしたが、一つ私がおもしろいと思いながら、もう一歩詰めの甘かった問題を取り上げておきたい。
 是枝さんの最近の著書に『映画を撮りながら考えたこと』(ミシマ社)がある。こんなに率直に語っていいのだろうかと思うくらい、自身の軌跡とその映画に対する考えを丸ごと語った本である。表現論として、短歌に通じるところ、もちろん大である。
 是枝さんは子役の演技には、それを口頭で伝える方法を多く用いることで有名な監督だが、たとえばバスの窓際に座るシーンでは「風が吹き込んで濡れた前髪が風を受けて気持ちいいのを感じて」などと伝えるのだという。そして、
 「何かをじっと見ている表情を、見ている先を映さずに撮ると、何を見ているのか
 も含めて観客はフレームの外を想像し、ふとその人物の内面へと寄り添ってくれま
 す。」
と述べる。なるほど、と思う。これは子役の操作法ではなく、表現の本質論だろう。
 風を感じながら、少年の視線は見るともなく窓の外に注がれている。その表情がアップになるが、観客の当然の予想を裏切って、いつまで経ってもその景が映されることはない。映されないことによって、観客はその景、対象を自らのなかに想像、回収せざるを得なくなる。〈映されない〉景に少年の表情を重ねることは、すなわち少年の内面へとプローブを伸べることに他ならないからである。
 これはまさに短歌に限らず、表現の本質論であろう。しかし、ここからは様々の問題が展開可能である。監督の意図したものと観客の想像するものとの乖離を容認できるのか、そもそも観客のレベルをどう見積もるのか。この短いフレーズからだけでも、短詩型における表現の問題をいくらも抽出できそうである。

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