八角堂便り

そのふたたびの如月の / 山下 洋

2023年5月号

 二〇二三年三月七日の夜、何とも素晴らしい満月だった。三月の満月を北米ではワームムーンというらしい。ワームと聞くと、『風の谷のナウシカ』に出てきた王蟲オームを思い出してしまうのだが、もちろんもっと小さな虫だろう。その前日、三月六日は二十四節気の啓蟄だった。同じ北半球の中緯度地域、それぞれ「虫の季」と認識しているところが興味深い。
 実は、新聞の片隅に、「あすのこよみ」と題して翌日の月齢と旧暦の日付を記した小さな欄がある。たまにしか見ないのだが、三月のはじめに、旧暦二月であることに気がついていた。それゆえ、この満月を心待ちにしていたのである。
  願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
                          西行『続古今集』
 「ほら、如月の望月やで」と、思わずひとに話しかけてしまった。近所で早咲きの桜(河津桜か)が咲き始めているくらい。まだ花見には、という感じだった。
 三月と言えば上巳、本来は旧暦三月三日なのだろうが、ちかごろは大抵、新暦で雛祭のようである。
  草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
                芭蕉『おくの細道』
 芭蕉は旧暦三月二十七日に旅立つのだが、それに先だって深川の芭蕉庵を引き払っている。この雛祭は、新暦でいうと四月のことであろう。
  仕る手に笛もなし古雛
            『松本たかし句集』
 ルビを補うと〈つかまつるてにふえもなしふるひひな〉。雛祭の句で、真っ先に浮かぶのがこの句。お内裏さまや官女ではなくて囃子方を見ている。能楽の家に生まれながら、十代のころに病を得て、その道に進むのを断念したとか。囃子方と書いたが、五人のうちの一人は楽器を持っていない。扇を持った地謡である。たかしは、能舞台を思いながら雛壇を見ていたような気がして、切なくなってしまう。さて、この雛飾りは、新暦・旧暦いずれの三月のことだったろうか。
 彼には、ほかにもこんな句がある。
  チゝポゝと鼓打たうよ花月夜
                『鷹』
 この桜は、おそらく満開。彼の耳には、打つ前から、鼓の音が聞こえていたに違いない。そんなことを考えながら「花咲かば告げんと言ひし山里の~」と謡曲「鞍馬天狗」の一節を口遊んでいると、その本歌になった一首、
  花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ
                           源頼政『従三位頼政集』
にまで意識が及んで、とりとめもなく夜が更けるのだった。
 この稿を書いているのは三月下旬なのだが、さっき久しぶりに「あすのこよみ」をみると、明日はまた旧二月。なんと今年は閏二月があるのだ。もう一度「如月の望月」に逢えるかと思うと、ちょっと嬉しくなった。

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