八角堂便り

〈ない〉ことへの気づき / 永田 和宏

2022年11月号

 笹公人の最新歌集『終楽章』をおもしろく読んだ。笹公人と言えば反射的に『念力家族』が思い出されるが、今回の歌集はそれとはまったく趣を異にしており、帯文をそのまま引用すれば「念力少年四十五歳、壊れゆく父にガチで挑む。『念力家族』から19年目の新境地」ということになる。
 認知症の父の介護の日々を、率直に、かつあっけらかんと詠っている作品が並び、湿りがちな感情を突き放すように詠われる作品の並びに、却って強い共感を覚える。悪戦苦闘の日々にあって紡がれる作品のリアリティについては、実際に歌集にあたっていただくのが最善だが、折しも連載中の「人生後半に読みたい秀歌」(「一冊の本」十月号、朝日新聞出版)に、この歌集に見つけた一首を枕に使わせていただいた。
  浅き眠りの父を傍に読みふける介護の歌なき万葉集を
 歌の背景や鑑賞は、紙幅の関係からここでは省かせてもらうが、この一首のおもしろさは、たぶん作者と同じ環境でなければ、決して気づくことのなかった筈の発見であろう。
 万葉集には介護の歌がない!
 万葉集を読む進むとき、誰がこんなことを考えながら読むだろう。抜き差しならない問題として、常に父の介護という困難が作者の頭を離れないからこそ導かれた発見であったに違いない。
 一般に、何かがそこにあることを発見するのに較べて、そこに〈ない〉ことを発見するのは、格段に難しいものである。
 たとえば特定の文章のなかに、ある、、言葉やモノがあるかどうか、どこにあるかを見つけるのは、検索機能を使えばたちどころにわかる。特定の言葉が〈ない〉ということなら、これも比較的容易に解決がつこう。しかし、特定の何かを想定せずに、そこに〈ない〉ものに気づくという精神作用は、きわめて困難な、本来不可能なことであるはずである。
 しかし、翻ってみれば、そんな気づきこそが、表現という行為の究極の喜びなのかも知れないとも思うのである。
 私はかつて「塔」誌上に、「虚像論ノート」を連載したことがあった。拙著『解析短歌論』(而立書房)に収録されているが、高安国世の歌を中心に、〈ないこと〉を表現することは可能なのか、可能だとすればどのような表現によってそれはなされるのかについて考察したものだ。
 長い論考であってとても要約しきれないが、〈そこにないこと〉に気づくことは、そしてそれを表現することは、〈そこにあること〉より、はるかに大きなポテンシャルエネルギーを以て、存在を浮かびあがらせるものでもある。この表現のパラドックス、あるいはアポリアこそが、私たちを表現という行為に向かわせる原動力ともなっているに違いない。

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