林みよ治さんの短歌 / 栗木 京子
2023年1月号
林みよ治さんは作家の林真理子氏の母堂である。平成二十九年に百一歳で逝去したのち、三十二年間に詠んだ短歌の中から九百二首を選んで真理子氏と弟の和夫氏が歌集『詠みしわが歌』(非売品)を刊行した。山梨県生まれのみよ治さんは少女時代に児童文学雑誌「赤い鳥」に載った文章で注目されたが、その後は書店経営などで忙しく、文学への思いを長らく封印してきた。だが昭和五十八年に書店を閉じてから短歌結社「美知思波」に入会し、作歌活動を始めたのである。
ありし日のありのすさびの憎しみも煙となりて夫は焼かるる
六十年余り連れ添った夫を亡くした折の歌。上句は『源氏物語』で桐壺更衣が死去した場面を踏まえている。しかも、『源氏物語』本文の記述でなく『源氏釈』(源氏物語の最古の注釈書)の中の、
ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける
の本歌取りをしている。みよ治さんは若き日に当時の東京家政専門学校で池田亀鑑氏の源氏の講義を受けたとのこと。古典文学の教養の深さに感服する。
身捨つるほどにはあらずせめて競技に勝てよと煽るほどのニッポン
オリンピックの際の歌。古典のみならず、このように寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖
国はありや」の本歌取りもあって、守備範囲の広さに圧倒される。
衰へし声にて夫が撒きし豆けさ霜柱の上に光れり
遠山の雪解を待ちて里に咲く梅の色はも雪を匂はす
叢に投げ捨てられし自転車の何に振りあぐるやハンドル片手
いずれの歌もすぐれた描写力が光る。結句まで丁寧に対象と向き合い、そのことで歌に広がりが生まれている。
物持たぬ言訳に自称せし「引揚者」古語となりつつ老きはまれり
刺客ありくの一ありてさながらに芝居のごとき選挙終りぬ
なんでいま憲法を変へるのか考へて花が青葉になりても解せず
中国からの引揚の苦労や空襲の恐怖を体験しているみよ治さんは、時代状況に対する鋭い眼差しを有している。ただし大上段から物を言うことなく、自己客観や程よいユーモアや日常の実感に託しながらゆったりと思いを抒べている。
また、河野裕子ファンであることも本歌集で知り、うれしくなった。
「お好きかしら」とやさしき文字の文添へて欲しかりし歌集葦舟贈らる
紅さんが子を生むまでは死ねないのと詠みし願の空しく逝けり
みよ治さんは、このとき九十代半ば。河野さんの生き方や心情とのみずみずしい触れ合いが伝わってくる。