八角堂便り

ひた赤し~茂吉と哀草果 / 岡部 史

2023年12月号

 結城哀草果は明治二十六年山形県生まれ。農業に従事しながら、十一歳年長で近村出身の齋藤茂吉を慕い、大正三年アララギに入会している。そうした経緯からだろう、茂吉の影響を色濃く受け、細かい言い回しや、作品の形なども茂吉の短歌に類似する例が多々見られる。昭和四年刊行の第一歌集の代表歌の一つ
  ひた赤し落ちて行く日はひた赤し代搔馬しろかきうまは首ふりすすむ
                           『山麓』

は、『赤光』(大正二年刊・初版)中の、
  ひた赤し煉瓦の塀はひた赤しをんな刺しし男にものいひ居れば
に、構成が酷似している。(この歌は大正十年刊の『赤光』改訂版からは削除されている。)内容的にはどうだろう。
 茂吉の作品の方は、駆け出しの精神病医として精神鑑定を依頼され、監獄の赤い塀に視野を遮断されながら、殺人未遂犯に対面する場を詠む。極度に緊張し、その息苦しさが「ひた赤し」の繰り返しを呼び込んでいると感じられる。
 一方、哀草果の作品は対照的に、日没の光を浴びながら、野良に勤しむ様子を牧歌的に描き出す。「ひた赤し」の繰り返しは、代掻き馬の歩みを感じさせ、明るく伸びやかなリズムを生んでいる。
 主語を二句に挟み、「ひた赤し」を初句と三句で繰り返す、同じ形を取りながら、描かれる世界は全く異なるのである。
 『山麓』は農に携わる喜びと充実感に溢れた作品が中心になっていて、茂吉が詠み続けた多分に病的で、葛藤や苦渋に満ちた作品はほとんど見当たらない。
 哀草果は茂吉に心酔し、師事し、言葉遣いを真似ながらも、内容的には全く独自の道を歩んだのである。表現欲に満ちた青年期は特に、茂吉の描くような禍々しいほどに緊迫した精神世界や、事象の個性的な把握と独自の表現などに強く魅了され、影響されたとしても不思議はないように思えるし、私自身、作品としては茂吉の方にはるかに惹かれるのだが。
 哀草果は第二歌集以降は、東北農村の実情、特に凶作時の悲哀などを赤裸々に詠み、さらに『村里生活記』など優れた随筆も多く残した。生れ育った東北の自然や風土をこよなく愛し、農を通じて命の糧を得ていくことに最後まで誇りを持ち続けたからに違いない。
 中学生まで山形県内で暮した私は茂吉を知る以前から、新聞の地方版の歌壇の選者として哀草果の名を知っていた。中学に入学すると校歌の作詞者と知ることになる。「水のむらやま 鳥寄ろう 雲うつくしき たたずまい」と始まる文語の歌詞は、中学生にはところどころ意味不明だったが、校歌が静かな自然讃歌になっているということは理解でき、好んで歌っていたし、今も時々、ひとり声に出して歌ってみることもある。不思議な大地の力、のようなものも感じられて、気持ちが上向くのである。

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