八角堂便り

AIと連歌を巻く / 永田 和宏

2024年1月号

 ChatGPTなど何かと話題のAI(正確に言うと生成AI)だが、AIと連歌を巻いてみませんかという魅力的なお誘いをいただき、先日東京でその会があった。
 生成AIがどのように文を組み立てていくかは、単純化して言えば、ある言葉が来た時に、次にどんな言葉が続く確率がもっとも高いかを、これまでに学習したすべてのテキストから計算して割り出し、一語一語を繋ぎ、生成していくものである。ある意味、言葉と言葉の繋がりが最も密な代表としての文が作られることになる。AIが作った文章はどこか既視感があるとか、優等生的などと評される所以ゆえんである。
 AIを使って短歌を作ることは可能か、それは許されるのかといった問題は、この一年ほどのあいだに急上昇してきた、まだ解決のつかない問題である。しかし、一つはっきりしているのは、生成AIが文を作る時と、私たちが短歌なら短歌という詩を作る時とでは、言葉の選択が真逆と言ってもいいような関係にあるということ。出来合いの言葉、みんなが感じるような当たり前の展開はまずは避けたいと思うだろう。
 ここでは当日、会場で私が指摘しておいた一つのことだけを書いておこう。
 言葉はどれだけたくさんあろうと所詮有限である。この意味で、私は「言葉は究極のデジタルである」と言ってきた。言葉を並べれば、どんな情景でも感情でも、まあ大体は表現できるだろうと思われるかもしれないが、所詮有限の道具を使って、無限の多様性に満ちたアナログの世界を、完全に表現し尽せるものではない。私たちが持っている言葉は、現実の世界に対応するには隙間だらけなのである。
 だから、何かを表現できたと思った時には、その背後に、圧倒的な量の、表現できなかったものがあることを思い浮かべておく必要がある。私たちは言葉で表現されたものを読むとき、どうしても「表現されたもの」にばかり意識や興味が行きがちであるが、それ以上に、表現できなかったもの、敢えて表現されなかったものにこそ思いを致す、実はそれこそが「読む」という行為なのである。先ほど言った隙間を読むことが大切なのである。
 このような言葉というデジタル情報から、表現された内容を、さらに表現されていないものまで含めたアナログ情報を読み取ることは、機械にはできない。機械は、デジタル情報をデジタル情報に変換することは得意だが、アナログ情報をデジタル化したり、デジタル情報からアナログ情報を再構成することは決してできないのだ。デジタル – アナログ変換は、今のところ人にしかできない。
 その意味で、創作という行為、そして読みや鑑賞という行為は、人にしかできないものと言ってよい。会場では、そんな指摘をしておいた。(今回、京都新聞「天眼」十一月五日に掲載された文章を、字数の関係から三分の二ほどに削りました)

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