八角堂便り

白桔梗(トラジ) / 前田 康子

2023年6月号

 二〇一九年に公開された韓国の「マルモイ ことばあつめ」はとても好きな映画で三回も観た。主役の一人である俳優ユ・ヘジンのもともとファンなのもあるが、彼がとてもいい味を出している。
 時代は一九四〇年代、日本統治下の京城。その頃日本の弾圧が厳しさを増し朝鮮語の使用が規制され、話し言葉、氏名までも日本式に変えなければならなくなっていた。そんな中「朝鮮語学会」は失われゆく朝鮮語を守るため辞典を創ろうとしていた。そこにやとわれたのが文字の読めないパンス(ユ・ヘジン)だった。「金にもならない文字」を覚えても仕方がないと文句を言いつつパンスは文字を知ると、町の看板やメニューなどを声に出して読み、世界と自分が繋がっていくことに目を輝かせる。そして多くの人々とともに母国語を守るため辞典創りに奮闘する。
 母国語を失うとはどれほどの痛みか考え、奪った方の自国の歴史に向き合いながら観る映画だった。と同時にハンセン病短歌の中にも日本の療養所で朝鮮語を学ぶ歌があったのを思い出した。
  朝鮮語の点字学びて祖国の歌くちずさみつついつか眠りし
  日本の統治下に朝鮮で学べざりし朝鮮文学を今にして学ぶ
  点訳のわが朝鮮の民族史今日も舌先のほてるまで読みぬ
 作者は金夏日キムハイル。歌集、随筆集など多く出版し、群馬県文学賞を受賞している。彼は一九二六年、韓国で生まれ、家族とともに日本に渡ったが、十五歳でハンセン病を発病。療養所に入り、病により失明するも短歌を学ぶ。その後、指の感覚がなくなり舌読で点字を学び始めたのが二十六歳、朝鮮語を二十九歳から学び始める。三首目の歌は舌読の歌で、「ほてる」に読み続ける舌の痛さとそれでも読むことをやめられない気持ちの昂りが伝わって来る。このように金夏日が母国語を得るまでにどれほどの努力と困難があったか、想像しても計り知れない。
  韓語にてトラジと呼べる白桔梗わが庭いっぱい広がり咲けり
  響きよき美しい母国語あるゆえに母国語習い母国語話さん
  年どしに朝鮮の歴史点訳され我が本棚にふえゆく楽しさ
 一首目、朝鮮語でトラジと呼ぶことにより、花に包まれ祖国の地に立っている気持になったのではないか。二首目では朝鮮語の響きの美しさを愛し、三首目では言葉が伝える自国の歴史に満たされていく心を感じる。
  指紋押す指の無ければ外国人登録証にわが指紋なし
 外国人登録証に指紋押捺が必要であった頃の歌。あえて病でなくした指を詠み、押捺の無意味さを鋭く世に問う一首である。

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