八角堂便り

カモメは鷗、ホタルは蛍 / 小林 信也

2023年9月号

 「漢字」のあれこれが面白くていろいろ読んだりしている。何か大きな変革が起きると国語や文字に波及するのがわが国の習いらしく、明治維新の際には文部大臣にもなった森有礼が英語の公用化を唱えたし、昭和の敗戦の際にも当然のように漢字廃止やローマ字化の議論が起き、フランス語にしろという意見まで出た。昭和二十一年制定の当用漢字表は、明らかに漢字制限の方向性を持ったものであって、後に大きな影響を及ぼしている。(昭和五十六年制定の常用漢字表は「目安」の位置付けに変わったが。)
 ことの発端は昨年、永久保英敏さんの歌集『いろくず』の刊行をお手伝いしていた際に、出版のいりの舎の綿密な校閲に触れたことである。特に「呑」の字が全て「吞」に変えられていたのが衝撃だった。前者は上半分が「添」の旁の上半分と同じ、後者は一画目が横棒の「一」になっていて、初め、どこが直されているのかわからなかった。現在の標準形は前者で、ワープロでも変換されるのは「呑」の方だが、大漢和辞典によれば後者が正字で前者は俗字とのこと。ただ、どちらも常用漢字表には入っていない。
 略字について不思議だったのは、次の歌の「蛍」がノーチェックだったこと。
  雨に染む白躑躅の花くだけたる蛍光管の如く光りぬ
                         永久保英敏『いろくず』
 え?「螢」にしないの?と思った。「鴎」が「鷗」に直されるのはよくあるが、ホタルは「蛍」でいいのか。尻が光る虫なのだから「火」は必須ではないのか。答えはこの歌の中にあった。「蛍光管」である。「鴎」も「鷗」も常用漢字表に入っていない「表外字」なのだが、「蛍」は常用漢字表にある歴とした公式漢字なのだ。どうやら虫はどうでもよくて、「蛍光灯」の表記を認めるのが目的だったようだ。「營」が当用漢字で「営」になったのと同じ変更で、恐らく広く使われていたものを追認したのだろう。
 当用漢字の略字としてもう一つ挙げると「臭」。下半分が「大」だが、嗅覚に関する字なので元々は「犬」だった。それが当用漢字で「大」になったのは、「書きやすいから」だという。とんでもない理由だが、戦後間もなくの風潮を物語っている。「嗅」は常用漢字で復活したが、旁の下半分は当然「犬」である。
 さてこの種の話で考慮しないといけないのはJIS漢字規格だ。昭和五十三年、なんと常用漢字表より前に決められている。「吞」がなぜ「呑」になったのか。追究を今後の楽しみとしたい。
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 「呑」についてだが、どうも大江山の「酒吞童子」に限っては今でも「吞」が主流らしい。確かに歌集『いろくず』で「吞」が登場する歌は、ほぼすべて酒を飲む場面なのであった。

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