八角堂便り

歌で味わう④〈粉もん〉 / なみの亜子

2022年9月号

 そういえば、歳とってきたせいかあんまり食べなくなったな、というものの一つが、粉もん。なかでも「お好み焼き」は、さっぱり食べなくなった。食事にしては落ち着きが悪い。間食としては重すぎる(あくまで個人の見解です)。何より前面的に圧してくる、ソース&マヨネーズの濃厚感。一枚まるまる食べ切れる気がしない。若い頃はそれこそが魅惑的で、よく食べた。学生時代には放課後に。勤めているときは、夜のデートや会食に。一人でなく必ず誰かと一緒だった。
 鉄板席で、あらかじめ配合してある生地を混ぜるところから。鉄板に油を塗ってその生地を広げ、コテで何度かひっくり返しながら自分らで焼き、焼けたらソースを塗り、青海苔や粉がつおやらふりかけて食べる。一定の時間を要する工程があり、その時間のちょっとした手持ち無沙汰をおしゃべりが埋める。えっ? うそっ! とか、知らんかったわ〜とか他愛もない内容なのだが、不思議とナマな、ぶっちゃけ話になることが多かった。あれ、なんなんやろう。
  四十になっても抱くかと問われつつお好み焼きにタレを塗る刷毛
 そんなお好み焼きを一緒に焼く仲の、若い男女。ねんごろにして、生活感を共有する仲なのだ。お好み焼きがそろそろ焼けてきて、さあタレを塗ろうか、という段階で、直球かつ本質的な問いが投げかけられる。何十年先の二人はどう変わっているのか。想像し難い未来への不安が、ダイレクトな問いになって出る。男女は四十になってもいわゆる男女なのか。こう問われてみて、むむ、となる。「タレを塗る刷毛」は揺れたろうか。ぎこちなくなったろうか。あれこれ想像させられる場面。吉川宏志『青蟬』の一首。この先を共にしようという若い男女の、素朴といえば素朴な疑問が印象深い。
  ハケもちてお好み焼きにタレを塗り四十歳を祝ひたりけり
 この歌にも「四十歳」を祝う、という若さがある。塗って仕上がり、というタイミングだろう。自分で自分を祝う、というささやかながら灯るような心持ち。一人でも楽しめる、むしろいろいろある工程を楽しみに変える、そんな感じだ。おいしかったろうな。大松達知『ゆりかごのうた』の一首。作者はこの後まもなく父親となる。その心躍りもあろうか。
 関西ならではだろうか、お好み焼きは各家庭でもよく焼く。銀のコテもハケもみんな家庭に揃えてあって、ホットプレートで気軽にジューッとやる。大阪出身の友人には、お互いが一人暮らしのころ呼ばれてはよくお好みパーティーをした。自分たちの好みで大葉(青じそ)やチーズを入れたり、アレンジ自在。その間にそれぞれの彼氏の話をしていたような。「お好み焼き」は食すより、焼くところに比重があるような気がしてくるのだ。

ページトップへ