二宮尊徳の道歌 / 梶原さい子
2023年11月号
稲刈りのシーズンがまもなく始まる。今年は本当に異常な暑さが続いていたので、お米は大丈夫かなと、田んぼの脇を通りながら毎日思っていた。
お米の歌として、思い出される一首がある。
米まけば米草はえて米の花さきつつ米の実のる世の中
二宮 尊徳「三才独楽集」
これは、米を播けば米が実るという、当たり前の「因果」を詠んでいるのだが、必ずしも当たり前ではなかっただろうとも思う。無事に実ることをどんなに願っていたか。
二宮尊徳は、薪を背負いながら勉強する銅像で有名な二宮金次郎のこと。江戸時代後期、農業改良や農村の復興に力を尽くし、六百もの村を立て直したという。
尊徳の歌は、「道歌」と呼ばれる。つまりは、道を説いた教訓の歌なのだが、シンプルな物言いの中にじわじわとしみ出してくるものがあって、なるほどと感じさせる。実践の人だからだ。
百草の根も木も枝も花も実も種よりいでてたねとなるまで
どんなものも「種」から「たね」まで。表層的な形は違って見えても、根本は同じ。そして、元に還ってゆく。これは、人間も同じだろう。内容に応じて韻律にも緩急を持たせている歌である。
ちうちうと嘆き苦しむ声きけばねずみの地獄ねこの極楽
全くその通りで、物事には、必ず裏と表があるはずなのに、普段はそれを忘れていることに思い至り、はっとする。無邪気に喜んでごめんなさい。「地獄」と「極楽」の対比があまりに効きすぎていて、ちょっと呆然としてしまう。
父母もその父母もわが身なりわれを愛せよわれを敬せよ
こういう思想は当時のスタンダードだったのか。「身体髪膚これを父母に受く」を踏まえているのだろうが、「われを愛せよわれを敬せよ」のストレートさは、むしろ今の世で盛んに言われていることだ。尊徳は早くに両親を亡くしたので、孝行する方法として、われを愛する、敬するということを見出したのかもしれない。
いにしへの白きをおもひせんたくのかへすがへすもかへすがへすも
これは楽しい歌で、要は何度も返しながら手洗いをしているのだが、まず、「いにしへの白きをおもひ」がユーモラス。「いにしへ」なんて大袈裟だが、確かに、初めが一番きれいだった。その白さまで甦らせたいのだ。そして、「かへす」×四回。なかなか斬新だ。裏表何度も洗う様子が字面からも直感的に伝わる。この歌に、「心」というキーワードを当てはめると、ドキッとしてしまうのだが……。
わかりやすさは、民衆に伝えるための方便。そして、現代のこちらにも響いてくる。