八角堂便り

梶原景時の連歌 / 梶原さい子

2022年10月号

 現在、三谷幸喜脚本の大河ドラマ、『鎌倉殿の13人』が放映されている。源頼朝の死後に二代目頼家を支える13人の重臣の群像劇だが、それを観ると、東国の武士として新しい権力を樹立したいと志向しながらも、京都の公家たちとの結び付きも求めていたことがわかる。京都に行ったときに大丈夫なように(あるいは馬鹿にされないように)、蹴鞠の練習をしたり、文字の練習をしたりするシーンは、面白いけれど、なかなかにせつない。
 重臣の一人、梶原景時は、武骨な士の中にあって、武芸だけでなく和歌などの都の文化にも通じていたとされる。景時は当初、頼朝の敵方だったが、頼朝が石橋山の戦いで大敗し窟に隠れているときに見逃し、その後、第一の郎党として重用されるようになった。
 『吾妻鏡』には、景時と頼朝のこんなエピソードがある。
 京都に向かうため、頼朝たちが今の静岡県の「橋本」という宿まで来たときに、遊女達が、頼朝に会いたくてたくさん集まったそうだ。ドラマでも頼朝は好色な人物として描かれ、周囲の者は困っていたが、それはそれとして、遊女たちに贈り物をしたいと思った頼朝は、景時に歌で相談する。
  はしもとの君にはなにかわたすべき
 橋本の女性たちには何を渡したらいいかな?
 こういうまめなところもモテる要因なのかもしれないが、それに対して景時は、
  ただそまかはのくれてすぎばや
 そこらの材木でもくれて、通り過ぎましょう。と、にべもない。
 だが、よく見ると、技巧が凝らされている返しである。「そまかは」は、杣皮。山から採った、皮が付いたままの材木のことだが、「杣川」とも掛けられていて、材木を流す川のようにさーと通り過ぎましょうという、イメージを含んだメッセージになっている。また、「くれ」は「呉れ/暮れ/榑(板材)」、「すぎ」は「過ぎ/杉」。日暮れが近かったこと、杣山は杉山で、そこから杉が見えていたことなどが窺える。歌の成立した場の雰囲気を感じられる、即妙の返しであると思う。
 結局、頼朝は、「杣皮」というアドバイスを自己解釈でもって受け入れたのか、「染(めの布)」や「革(の素材かもしれない馬鞍)」を贈ったそうだ。
 『増鏡』には、この二人の関わりについて、「なんと遠慮がないことだ」と書かれている。ここから十年の間に、頼朝は死に、景時も御家人の権力争いの中で帰らぬ人となった。ドラマを見ても、容赦のない厳しい時代だなあと思うが、連歌でのこのようなやりとりを見るとほっとする。そして、歌というものが、そこに生きた人間の息遣いの欠片を伝えるものだということに感じ入る。

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