八角堂便り

くろももさん、トム・ハンクス、松平修文 / 永田 淳

2023年7月号

 くろももさんこと、黒田杏子さんの急死の報に接したのは、くろももさんから歌集受領のフェルメールの絵葉書をいただいて一ヶ月ほどした頃だった。いつもモンペ姿で快活なくろももさんへ私の歌集をお送りしたところ、「全歌拝見」とあり「報告的な作品が多いのでは」「理屈の合わない作品がもっとあってもよい」と特徴的な文字で書かれていた。お送りしてすぐに全部読んで下さったことに感謝しつつも、理屈の合わない作品との評に戸惑いも覚えた。確かに歌会などで「理が勝っている」といった評をすることもされることも多い。しかし「理屈の合わない」というのはどういったことだろう。試しに黒田杏子句集『銀河山河』を開いてみると、こんな句がある。
  寒稲妻蠟燭の芯切りにけり
  星とんでとんで往還ちりもなし
 なるほどなぁ、と思う。ここには理屈はなくて、目の前の、もっと大袈裟に言えば世界の、把握だけがある。こういうことか。ご冥福をお祈りします。
 ちょうどそんなとき、映画「幸せへのまわり道」を観ていたら、トム・ハンクス扮するフレッド・ロジャースが、主人公の父の死期が近いクライマックスでこんなことを言っていた。「人間のことわりは言葉にできる。言葉に出来ることには対処できる」。避けられない死という現実を、言葉によって分節することで理解し、納得できるということなのだろう。
 言葉にする、ということでは同じながら、くろももさんとトム・ハンクスはおそらく、まったく正反対のことを言っていて、そこが面白い。そして多分、どちらの言い分も間違ってはいない。
 そんなことを思いながら松平修文歌集『トゥオネラ』を読んでいた。
  人ではないでせう、あれは風か何かです 馬を連れてゐるのは
  霧を固めて作つた菓子のひと切れをすすめられをり 深更よはの茶房に
 一般的な常識の尺度では測れないような歌が多く並ぶ。奇想と言ってしまえばひと言で片付いてしまうが、そうではないだろう。
 自身の想念のなかでモヤモヤと形をなそうとしている不鮮明なイメージ、あるいは確かに作者が「視た」景色(目にした景色ではない)を、なんとか言葉でもって表現しようとする格闘の痕跡が一首一首の裏側には紛れもなく流れているように思うのだ。
 理屈ではないけれど、言葉に出来る。言葉にすることによって世界と折り合いを付けながら生きている。歌人をはじめ韻文を作っている人々は多かれ少なかれこういった側面があるんじゃないか、そんなことを思っている。『トゥオネラ』にはこんな歌もあった。
  かたみに解りあひ事は足る ひとみな類型の陥穽に塡はまりて
 類型の陥穽に塡まってはいけない。

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