八角堂便り

歌集の批評とは / 栗木 京子

2024年3月号

 現代短歌社の「BR賞」(ブックレビュー賞)が創設されて書評に光が当たるようになったのは喜ばしいことである。だが、書評の分量などによって書き方が異なり、毎回「一回勝負」という感じがして執筆するたびに緊張する。
 良い歌集評とは、というのは答えにくいので、ここでは逆に「あまり感心しない歌集評」というのを考えてみたい。
★作品を離れて自説を展開する
 引用作品の中に得意分野を見つけたとき、それについての知識を長々と書く人がいる。鳥に詳しい人が作品中の鳥の生態を解説したり、旅行好きな人が「私がローマに旅したときは」と思い出を語ったり。長文の書評のときはそれも論の味わいになるだろうが、大抵は「蘊蓄を語るならば別の場で」と言いたくなる。
★他の歌人の作品と過度に比較する
 比較しながら書評をする、というのは大切なことである。だから一概に否定するわけではない。例えば「泣く」という語の詠み方について複数の作者の歌を引いて考察するのは有効なアプローチと言える。だが、四百字詰七枚ほどの書評で全体の半分近くが他の作者の歌の引用、となってはやはり都合が悪い。
★一首評ばかりを列記する
 前の二つと違って、こちらは対象歌集に専念している点は評価すべきである。好きな歌や気になる歌を一首、また一首と選び出して評を述べてゆく。それで充分なのだが、歌集というまとまりに向き合っているのだから、できれば全体を見渡した引用歌の選出や並べ方をしたいところである。じつは、これが最も時間がかかって苦心するポイントなのだが。
 ごく稀に、多くの歌を引用して並べただけでコメントをほとんど付けない歌集評に出合うことがある。これは無造作すぎると思う。引用した歌の少なくとも3分の2にはコメントすべきである。
★統計をとっただけで終わる
 歌集全体の特徴をつかもうとして数値化して評することがある。比喩が多い、オノマトペが目立つ、など。詳細に数えてパーセンテージを出す評もある。参考にはなるが、統計だけで終わるのは味気ない。そこに評者の分析と見解が加われば、すぐれた評になると思う。
★褒めすぎる、批判しすぎる
 「あえて厳しく」と著者自身から頼まれることもあるが、無理に褒めたり批判したりすると文章が下品になる。また、「好きです」一辺倒や「わからない」を連発する評も避けたい。
 以上、マイナーなことを書きすぎた。そのせいで歌集評を引き受ける人がいなくなったら編集部に叱られてしまう。
 でも、大丈夫。結論を一言で表せば、「歌集評は怖くない」と言いたい。対象歌集への愛と敬意があれば心に残る評は必ず書けます。そう信じている。

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