八角堂便り

二人羽織としての本歌取り / 永田 淳

2016年7月号

 角川「短歌」3月号を読んでいて、ふとあることに気付いた。
 たとえばこんな歌に目がとまるのである。(引用はいずれも同誌3月号)
  去年今年つらぬく棒の横暴は間なく砕けむ愉しむならねど
                           橋本喜典「歌詠む木立」
  他国から見ればしずかな的として原発ありや雪ふる浜に
                            吉川宏志「白き錠剤」
  戦争は廊下の奥に立っていて「意志の勝利」もすぐそこにいる
                            藤原龍一郎「誰ガ為」
 いずれも本歌(句)がある。念のために確認しておくと「去年今年つらぬく棒の如きもの」(高浜虚子)、「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」(葛原妙子)「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)。
 引用の三首はいずれもいまの時代が直面している問題に取材した社会詠である。橋本の一首はこれだけではそれと知れないが、これに続く歌には「一国の危機」といった結句も見え、明らかに現状を憂う一連となっている。また藤原の一連はAKBが軍歌を歌うといった、近未来を予見するような内容となっている。「意志の勝利」はナチ党大会の記録映画である。
 なぜ彼らは過去の作品を下敷きにする必要があったのだろう。
 社会を批判するときに、個々人だけの声だとどうしても届かない、響かない、そんなことをこの三人は、たとえ無意識にしろ、思ったのではないだろうか。
 むろん虚子や葛原の句や歌は直接的には社会詠ではない。白泉の句は純然たる社会批判であるが。
 年が改まっても不変である自己を棒にたとえた虚子、その棒を政権と捉え直した橋本。忘年だ、新年だと騒いだとて結局は何も変わらない、そこを虚子はアイロニカルに愉しんでいるように見える、橋本はそう一句を鑑賞している筈だ。この「横暴」もいつかは潰えるだろう、虚子が世を去ったように、そんな読みを加えると一首はさらに重層性を増す。
 幻想的な葛原の歌を、スーパーリアルに置き換えた吉川。パロディ的要素が強いが、幻想がいつしか現実へとスイッチしてしまうのではないか、そんな恐怖に似た感情を読者は受け取る。
 これら人口によく膾炙した先行作品を自身の作品に織り込むことでイメージが増幅されることを私たち実作者はよく知っているし、読者も想像を膨らませながら読むことになる。また本歌(句)には本来備わっていなかった新たな解釈が付加されていることに気付くのである。
 そして、あたかも二人羽織のように、三者の作品を通して虚子や葛原、白泉が語っているような、そんな錯覚に陥らないだろうか。作者一個人の信条というのではなく、その思いを後押しする守護霊のようにこれら本歌(句)は立っている。

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