八角堂便り

響きあう歌 / 江戸 雪

2016年6月号

 歌会で読んだ歌が「塔」に載ると全く別のすがたに見えることがよくある。三月号では次の歌など。
  美容院で眉整えてきたる子がりんごケーキの林檎を残す
                            山下 裕美 
 天王寺歌会で下の句に思春期の微妙な心理が表されていると好評だった。「塔」では、後に「窓ガラスぬらさぬ雨のあたたかし幼きいろに柿は濡れおり」がある。「幼きいろ」に濡れている柿と並ぶと、「林檎」が思春期の心理というよりも若さの濃密な甘さとして感じられた。
  足伸べてやや楽になるこの鈍痛 小学校からチャイムが聞こゆ
                               大喜多秀起 
 大阪歌会では下の句に共感する方が多く、一字あけは無かったのか、「鈍痛小学校」と読めるなどという面白い意見もあった。「塔」には、山寺を訪うたり、明日を嘆いたりする歌の最後の歌として掲載。「チャイム」よりも、沈んだ日常に潜んでいる「鈍痛」のほうが胸に迫ってきた。
  むしろわれはもう片方の色白の無視されたままに死にたる人か
                               久保 茂樹 
 旧月歌会では難解歌として議論された。二〇一五年一月に殺害されたジャーナリスト、後藤健二氏と湯川遥菜氏のことだろうという意見に納得しながらも不完全燃焼。「塔」には、秋の冷たい朝・恋人との在りよう・スーパーでニンニクを探しまわる様子の歌に続いて掲載。難解だが初句「むしろわれは」がことさら哀しみをふかく帯びてみえた。
 二月号の〈短連作〉特集の河野美砂子さんの評論に、雑誌や新聞で読んだ連作が組み替えられて歌集に載ったとき「まったく別人みたい」で「すこし悲しかった」とある。だが私は、情況は違うが、置かれる場所によってみえる歌のすがたの変化を不思議に楽しくおもう。やはり短歌は言葉によって世界を創り出すもの、こんなに短い詩のなかに柔軟で大きく深い響きの空間が広がっているのだな、と。
 歌会や紙面では一首や二首単位で意見を述べ合う。そのとき、細かい分解がなされたり、読みに個人的な経験が色濃く出たりして神経を磨り減らされることもよくある。それでも、批評は読みの多様性を知り、修辞鍛錬の機会であることには間違いない。一方で、批評は一過性のものであることも忘れてはならない。歌会で評判がよくなかった歌が歌集や連作のなかに入ると俄然かがやきを持ったり、またその逆もある。批評されるときはありがたく受け入れ、その後、褒められた歌はほんとうにそれでいいのか、批判された歌はどうなおすかあるいはなおさないかを考えたい。皆が、うけた評価に右往左往して流されると、おなじような歌が並ぶ歌会や紙面になってしまう。
 自分が詠いたい歌はどのような歌なのか。私も未だ手探りではあるけれど。

ページトップへ