青蟬通信

妄想かもしれないが / 吉川 宏志

2016年6月号

 人工知能について、将棋の羽生善治名人がレポートしているNHKのテレビ番組を見た。最近、囲碁の世界では、世界最高峰の棋士がコンピュータと対戦して惨敗し、大きな話題になった。コンピュータが囲碁で人間に勝つのは、もっと遠い未来のことだと考えられていた。しかし、非常に短い時間で、人工知能が急激な進化を遂げたことに、衝撃を受けた人々は多かったのである。膨大なデータを解析することで、人工知能は、人間の〈直観〉も再現できるようになったという。開発してきた人が、もはやコンピュータが何を考えているのか理解できないと述べるシーンがあって、とても不気味だった。
 俳句・短歌をコンピュータは作れるか。それは以前から話題になっていたし、実際に作らせる試みもすでに行われている。俳句の場合、〈古寺に斧こだまする寒さかな〉など、コンピュータに意味のある句を作らせることはできるらしい。
 しかし、ここで見落としてはならないのは、コンピュータが句や歌を作っても、その中から「おもしろいな」と感じるものを見つけるには、人間の感性が必要なのだ、という点である。〈古寺に……〉を読んで、寂寥感を持つとしたら、それは人間の想像力が活性化しているからだ。たとえば俳句のコンクールで、コンピュータの作った句が選ばれたする。だがそれだけでは、人間の価値観に、偶然一致した言葉が作られたということにすぎないだろう。
 また、短歌の連作の場合、何十首かを統一するような、〈人格〉のようなものが必要になってくる。バラバラな歌が並んでいても、切迫した印象は生じてこない。茂吉、牧水、晶子などの歌集が、読者に強く響いてくるのは、人間的なリアルな息づかいがあるためだ。歌の内容によって、字余りにしたり、定型に収めたりする、というのは、コンピュータには非常に難しいことだろう。
 だが、たとえば、「二十代の女子学生」という設定で、生活感のあるような歌をいくつも作ることができる人工知能が生み出されたらどうなるか。そして、選者が評価するであろう作品を、人工知能が自ら判断できるようになったとしたら。十年後、二十年後に、科学がそこまで発達している可能性はあるだろう。
 おそらく、事件は次のような形で起こる。○○新人賞に三十首、五十首で応募した作品が受賞し、その授賞式で、開発者が「これは人工知能が自分で歌を作って構成したものです」と発表するのである。そのときの選考委員に私は当たりたくないが、もし当たったらどうしよう。「コンピュータが作った歌とは見分けられませんでした。面目ない。」と謝るべきなのか。「人間が作っていなくても、良い歌は良い歌です。」と言うべきなのか。田中濯さんが以前、応募要項に、人工知能が作った作品は不可、という注意を載せるべきだと、どこかで書いていた記憶があるが、それでも事件は起きるだろう。
 ただ、もっと恐ろしいのは、短歌の〈選〉を、人工知能ができるようになることである。データベースを元に、過去に先例がある表現を見抜くのは最も得意だろうし、韻律などを分析して、「響きがよい歌」を判断するのも不可能ではないだろう。「悲しい」「寂しい」などが直接に表れている歌は、成功しないケースが多いから、それにはマイナス点をつけるとか。冗談と思われるかもしれないが、学術論文などの場合、コンピュータが文章の善悪を判定する、ということはすでに行われている。
 そんな未来がやってきたら、短歌の表現はどうなるのか。一つには、逆説的だが、作者の人生体験がかえって重視されるようになるかもしれない。人生の物語、といってもいいが、それは人間にしか価値を生み出せないものだからである。ただそれは、例の佐村河内事件につながるような危うさも持っている。
 まあ、あまり心配してもしかたがないわけだが、SF小説のように未来を想像(妄想?)するのも、楽しいことだろう。あらかじめ想像しておくことで、本当の危機が到来したときに、うまく対応できるということもあるのである。

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