青蟬通信

今年読んだ歌集から / 吉川 宏志

2023年12月号

 例年通り、今年読んだ歌集から、印象に残った歌を一首ずつ紹介していきたい。この欄ですでに取り上げた歌集は省略することにする。
  釣鐘草揺らしてあそぶ 逢はぬ日と逢ふ日をかさね春は終はりぬ
                        菅原百合絵『たましひの薄衣うすぎぬ
 たおやかなリズムが快い歌である。「逢はぬ日と逢ふ日をかさね」は、論理的には当たり前のことなのだけれど、それだけ恋人と逢うことが、自分の時間の中で大きな位置を占めていたのである。釣鐘草のイメージと重ねられることで、その時間に清冽な彩りが与えられている。
  うなりいる換気扇をまた見上げつつ木箱に盛らるる鯵を開きぬ
                           永久保英敏『いろくず』
 海産物を加工する労働を詠んでいる。木箱いっぱいの鯵を、いつまでも包丁で裂く作業を続けなければならない。上の句の換気扇の描写で、時間の長さが伝わってくる。第二句と第四句の字余りが、リズム的にも、強い粘りを生み出しているようだ。
  吐く息でとかさぬように雪片のようなるむすめの言葉を聞けり
                       佐藤華保理『ハイヌウェレの手』
 まだ若い娘の言葉を聞くのは難しい。ため息をついたりすると、すぐに言いかけた言葉は消えてしまうからだ。本心からの言葉を聞けなかったために、心の関係が途切れてしまうのはよくあることである。真摯に娘の言葉に耳を傾けようとする母親の姿勢が伝わってきて心に残る。「雪片」という比喩は美しいが、言葉の脆さやはかなさがよく出ている。
  言葉とはくちびる有りて伝わるを麻痺にて夫はことばを逃がす
                         佐波洋子『種子のまつぶさ』
 重病になった夫の介護を詠んだ歌である。唇が麻痺して、うまくしゃべれなくなってしまった。あらためて唇の大切さを認識している上の句に冷静さがあり、その冷静さによって心を支えている様子が感じられる。結句の「ことばを逃がす」という表現にも痛ましさがある。
  届かざりし言葉は抜けたる髪のやうそのうちわれも踏んでしまふよ
                          吉澤ゆう子『緑を揺らす』
 これも言葉の歌。相手に言ったけれど、聞いてもらえなかった言葉。大切な思いを込めて言ったはずなのに、しだいにつまらないもののように見えてきて、自分でも、ぞんざいに扱ってしまう。抜け髪にたとえたところが印象深いし、「踏んでしまふよ」という口語の結句も切なく響く。
  消えゆく言語 たとへばチョロテ語といふことば人間をなんと呼びて消えしか
                        川野里子『ウォーターリリー』
 「チョロテ語」は南米の先住民の言葉らしい。日本語なら人間を「ひと」と呼ぶ。それには他の言語に置き換えることのできない人間観が含まれているはずだ。世界には絶滅を危惧される言語がいくつもあるという。言語が失われることは、人間への思想が失われることなのだと訴えている。言葉をスケールの大きな視点から見つめた歌で読みごたえがある。
  どなたかと一緒に焼かれてきたような十円玉がお釣りにまじる
                           浜名理香『くさかむり』
 こんなふうに変色した十円玉をときどき目にすることがある。そこから、誰かと一緒に焼かれたのではないか、と飛躍した発想をしているところに驚かされるし、恐ろしさも感じてしまう。十円玉がどんなルートをたどってやってきたのか、私たちは全く知らないのである。
  それぞれが親の都合であの街にいただけだった少年少女
                             長谷川麟『延長戦』
 子どもの頃はたしかにこんな感じで、たまたま親が住んでいたから、同じ学校に通ったりして、知り合いになってゆく。でもそこから恋や友情が生まれてくる。逆に「親の都合」で別れてしまうこともある。少年少女の頃の人間関係のはかなさやかけがえのなさが捉えられて、心に沁みる一首。「……だけだった」という口調に、乾いた悲哀が籠もっている。
 残念ながらここで紙面が尽きた。角川の短歌年鑑にも、今年の第一歌集を紹介した文章を書いたので、お読みいただければ幸いである。

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