青蟬通信

歌集の批評会について / 吉川 宏志

2024年6月号

 コロナが大流行していたころは、歌集の批評会がほとんど行われなくなっていたが、最近は再び盛んになってきた。私も、この五月、橋本恵美さんの歌集『Bollard』の批評会に、パネラーとして出席した(他のパネラーは、「かりん」の松村由利子さんと田村穂隆さん)。
 歌集の批評会で、どのように発言すればいいのか、毎回悩んでしまう。最も大事なのは、歌集の中で、特に優れていると感じる歌を、どのように読んだかを伝えることなのだろう。『Bollard』では、
  眼鏡を外すちいさな仕草があなたにもあると思えり灯り消しつつ
  海老チリを食せばいつも祖父は言う蟬の抜け殻食べし戦地を
  ムンクの「叫び」の目から鼻から泡立ちて蓮根天婦羅からりと揚がる

などの歌が特に印象的だった。一首目は、遠いところにいる「あなた」が寝る前に眼鏡を外す様子を想像しながら、自分も眼鏡を外している場面であろう。眼鏡という物を通して、他者と心を通わせる、静かな優しさが心に残る。
 「蟬の抜け殻」もインパクトがあり、戦地の苛酷さが伝わってくるし、「蓮根天婦羅」からムンクを連想する飛躍もとてもおもしろい。
 そういうふうに、際立っている歌を紹介するだけでも十分なのだろう。ただ、それだけでなく、作者の歌の特質や独自性も、できれば捉えたい。それが最も難しいところだ。
  新しき六馬力なる空調機付けられ六頭立てのそよ風
 六馬力のエアコンという題材が珍しい。そこから作者は、目に見えない馬を想像している。ふと意識した言葉から、空想をさらに広げている。歌集を読んでいると、そんな歌がときどき現れることに気づく。
  下乗なるところで夏の帽子脱ぎ透明な馬を待たせて祈る
 寺社に行くと、ときどき「下乗げじょう」という木札や石碑が立っていることがある。昔はそこで馬を降りる決まりだったらしい。その言葉から発想して、作者は「透明な馬」が自分と共にいるように歌っているのだ。
 この歌集には馬の歌がいくつか見られるが、「馬」は自由な生命力を象徴するキーワードなのだろう。
  愛読者カードはらりと土の上に落ちて最後の章に入りゆく
 「愛読者カード」という、よく本に挟まっているものを題材に、雰囲気のある歌にしている。物の名前をよく見ており、それをきっかけに歌の世界が創り出されるのである。
  ボラードの点々とある岸壁にわれを座らせ父が夜釣りす
 歌集のタイトルに関係する歌。ボラードは、港などで船のロープを結びつける突起らしい。私も見た記憶がある。なるほど、あれをボラードというのか。この歌も、そうした名詞を核として、父を追憶している。
 このように読んでいくと、作者の歌の作り方の特徴がおのずから見えてくる気がする。
 他のパネラーの評に、なるほどと思わされることも多い。
  日没まで少し時間をあげるよと空に言われて百合に近づく
  掃くために木下に入れば樹の生きる時間に合わせ掃いているなり

 田村穂隆さんは、こうした歌を挙げ、「人間の時間、とはちがう時間」に触れている歌と評していた。確かにそうした側面があることに気づかされる。一首目は、河野裕子さんの歌の影響があるのかもしれない。
 最近、大澤真幸の『私たちの想像力は資本主義を超えるか』(角川ソフィア文庫)を読んだ。明治時代以降、読書は一人で「沈思黙考」するものだったが、ミステリーやSFなどで、「徒党を組んで」読書をすることが増えてきたことを指摘した箇所がある。サークルなどで、同じ本を読み、一緒に盛り上がる楽しみが、再発見されたのではないか、というのである。歌集の批評会も、それに近いところがあるように感じ、興味深かった。
 他人と共に読むことで、自分の読みが深まったり更新されたりする。その刺激を積極的に浴びることが、短歌では特に大切なのではないか。

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